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「〜へ」と「〜に」の違いを調べる時

自称本の虫(書痴という言葉の響きを好みますが、それを名乗るにはまだ青いかな、なんてことをいつも考えています)であり、文芸翻訳の道を志している自分ですが、そういえばまだ読んでいなかった本がありました。

「舟を編む」(三浦しおん著、光文社文庫)
今日は非・韓国文学です。ほんと、韓国文学以外を手に取るのは久しぶりです。

どうやら辞書編集部さんの話らしい、というところまで情報をキャッチしていたのですが、パラパラページをめくった際に頻出する「出版社」「編集者」「校正」という言葉たちの甘美な香りへ釣られて、このたび手に取るに至りました。

就職活動、なんだそれ、まあ周りもやってるならどうにかなるだろう……とゆるく構えていた頃の自分を思い出します。あの頃の自分にとって唯一の心のオアシスがSPSの言語領域(?)問題でした。

小難しい漢字ですとか、言葉としての成分ですとか、役割語へ対する理解ですとか、そんな問題たちを前にして、小〜高の頃の国語のテストがそうだったように、特段これといった努力もなしに良い手応えを感じることができる領域でした。普段の読書のおかげといっても差し支えないのでは…と未だにマジで思っています。

ただその言語領域問題を解いている時の、解は導き出せる(?)けれどまア食えんな〜といった、漠然とした、あの掴みきれない感触を確かに覚えています。

例えばこんな問題。
『次の文章内の「〜へ」と同じ用法のものを1〜4の中から一つ選びなさい。』

知らんがな?と思いながら回答していました。

あるいはこんな瞬間。
とある文芸翻訳講座にて、恩師がいうことには
『ここは「林へ」、ではなく「林に」がふさわしいですね。理由は〜』と。

こういうもの一つ一つ、新たな用例に出会うたびにセコセコ集めていく他ないと思っていたのですけれども(或いは毎度、SPS対策本から逆引きするか)、なんてことはない、こんな時こそ辞書の出番だったのですね。

お恥ずかしい話、母国語も非母国語も電子辞書・ネット検索に頼って生きてきた二十余年でした。辞書見ればいいんだ辞書。

「辞書は引くものではなく読むものだ。」といった金言を思い出すに至ります。
点と点がつながり、線になっていく瞬間は心地が良いですね。
自分が蒔いた点であるだけに、その快感もひとしおです。

『舟を編む』の初版は2015年とのことなのですが、例えば辞書の中の「愛」という項目について、「異性を対象として抱く感情〜」という文句に物申すシーンなんかも出てきて、凝り固まりからは程遠いこのジェンダー/セクシュアリティ感覚にどこか安心しながらページを捲る自分がいました。

なんといっても、ことば一つについてああだこうだと検討を重ねる辞書編集部らの思想やキャラクターが、貴く愛おしくてたまりません。

自分が韓国文学の中でも特に好きなジャンルとして真っ先に挙げるのがSFモノです。「どんなアイデンティティのものも置き去りにしない」、「それを想像し俯瞰するための努力を惜しまない」そんな著者と読者の「意思」で湛えられた世界。今回「舟を編む」を読みながら、もしかしたらこの登場人物たちの辞書作りに対する思いの中にも、あるいはそれらと似通った精神が脈々と流れていたのではないだろうか、そんなことを感じました。

特に心に響いた文章をふたつ、引用しときます。忘れないうちに。

「骨の中から髄液が溢れるさまを想像する。秘密が、生命力が、あふれ出る。小学生の頃は、削りたての木の香りがする鉛筆を使って、自由帳にロボットや怪人を描いたものだ。手で削るとうまく描ける気がするから、鉛筆削りは使わない。」

「古本好きのひとって、植物みたいだしなあ。洗濯にあまり興味ないのかも。」

うふふ。コミカルとリアルの真ん中で、こう不意に心へジンッとくる文章が息を潜めていて、それがまたいい塩梅なのでたまらなかったです。

ところで「書痴」とは、月に何冊程度読めば「書痴」たりえるのでしょう。
自分は月に10冊程度購入し、5〜6冊程度読む場合が多いですが、「書痴」とまでいくと最早冊数なんていちいち気に留められないほど、常にあらゆる本に囲まれ、溺れ、昼夜を問わず本と共にあるような人物像を連想します。

辞書で引いてみましょうか。

書痴:

1 読書ばかりしていて、世の中のことにうとい人。

2 書物の収集に熱中している人。ビブリオマニア。

(goo辞典)


この意味でいくと、自分は②の方に当てはまりそうです。
こんな風にして、積極的に辞書と仲良くしていきたいですね。

「辞書マニア」なる方がいるのも、今となってはなんだか頷けます。
色々な解釈の「書痴」に出会ってみたい。

自分も5年以内には出版社で働けていたらいいな…。

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