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大人であるということ

大人とは、どういう状態を指すのだろう。

成人の日を迎えてからだろうか。「脳が完成する」といわれている25歳を迎えてからだろうか。働きはじめてからだろうか。大人ってなんだ、うっすらと考え続けているけれど、その答えには辿り着かない。

「自分の精神年齢は何歳だと思う?」とよく周りの人たちに質問していた時期があった。友人も同僚も彼氏も、みんな実年齢よりも10歳程度若い年齢を答えて興味深かった。その流れで、見た目の話にもなることが多く、実年齢より10歳ほど若く見られる人もいれば、10歳ほど上に見られる人もいた。
人間には、「実年齢」「精神年齢」「~っぽ年齢」の3つの年齢があると仮定して、その3つの年齢を3次元のグラフで表してどうにかこうにかしてみたいと思うだけ思ったりしてみた。なんとなく相関関係が見えてきそう。数学に明るい人生を目指して、今からやり直せますか?

改めて考えると、年を重ねるにつれて、幼い頃に想像していた「大人の姿」と現在の自分との乖離を自覚していくのかもしれない。
大人になったらできるだろうと思っていたことが、大人と言われるような年齢になっても案外できないことに気づき、「まだまだ先の話か」と現在地からさらに登るべき大人の階段を用意する。「これぐらいの年齢になれば、これはできていて当然」という世間のモノサシを手放さない限り、登らないといけない大人への階段は用意され続けていく。しんどすぎる。

大人とは、用意し(てしまっ)た階段を「登らない」という選択ができる人だと現時点では思う。用意しても構わない。階段の上で、宝塚歌劇団のように登ったり下がったり、なんなら歌ったり踊ったりできることが大人だ。

階段そのものから自前であるべきなのか?と考えてもみたけど、人間どこのコミュニティにも属さずにはいられない生きものである以上、階段のネタは自然発生するものに近い気がする。身の回りで延び続ける階段の存在を知っていて、あえて、登る以外の選択肢を持つ強さ、自由さのようなものを身に纏いたい。

大人であるということは、「大人の階段」の上で自由に宝塚する、ことだ。

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