言い訳に埋もれるというご自愛
私にはしたいことがあった。どちらかと言えば、チャレンジすれば自身に良い結果が返ってくるかもしれないこと。ただそれにチャレンジするには時間も、頭で考える力も必要なことだった。(当たり障りのない言葉を並べるとこんなにも伝わらないものなのか...。)そのチャレンジのリミットは2日後。私はこの時限爆弾をポイしようと思う。
言い訳をこれから書く。なんてみっともないんだろう。でもこれが今の私だから、諦めた自分を真っ直ぐ見つめてみようと思う。
今の私の頭の中はこう。
チャレンジすることと同様に、時には諦めることも素晴らしいことだと思っている。私の持つプライドからすれば、チャレンジすることと同じレベルで諦めることも難しい位置にあった。私からすれば英断なのだ。どちらをしたとしても。
プライドと言う割に、言い訳をつらつら書いても平気な理由は、生活の怠惰による諦めではないと言い切れるから。目の前のことをきちんとこなしていけば、時間が無くなる。無くなっていく時間を横目に、生活をきちんと行っていった。(十分苦しい言い訳かもしれない。書いていて思う。)
生活をきちんと行うことを選んだのは私。天秤にかけて、ハイリスクハイリターンより、並リスク並リターンな日常生活、いつもの仕事を、手を抜かずにやろうと決めたのは私。だから、私が諦める結末を選んだ、と言っても間違いではない。
客観的に見たときに、私は私自身にどんな声をかけるだろう。「こんな言い訳をつらつら書く暇があるならもがいてでもチャッチャとチャレンジしなさいな!」と言うだろうか。人には優しい声をかけられるのに、自分のことになると厳しくなる。でも今日はそれもやめたい。
今回諦めることを選ぶことで、チャレンジしなかった方の道が開ける。諦めた私が開いていく道。そういう風に考えて生きていくしかない。どんな選択も失敗ではないと今は言い聞かせている。愚かだろうか。
(3か月前の下書きでした。続く。)
…と、2022年の3月20日に下書きに認めたまま今日まで放置しておりました。「続く」と書いてありますが、一体何をこの後に書こうとしていたのか、さっぱり。
もう何もかもが時効なので、そっとインターネットという海に流すことにします。人生はいつもアマジョッパ苦い。