川と自転車と太陽
取り掛からないといけない作業があるにも関わらず、今日感じたことをどうしても記憶として残しておきたく、己のやばさを感じながら本日もキーボードを叩き始める。
公園の正しい愛され方と愛し方
今日は、洗濯機を回してる間に近くの公園に散歩に出かけた。地元の住民だけが利用するには十分すぎるほどの広さを持つこの公園には、老若男女が様々な目的でここに訪れている。この公園の良いところは、無理なくアクセスすることができる人々が、のびのびと各々の時間を過ごしているところ。
ある老夫婦は、ゆっくりと並んで散歩を。また、別の老夫婦は、老いた小さなチワワ(リードを付けずに自由気ままに二人に着いていく姿が愛おしい)を連れて散歩を。
木陰では女子高生が一人でトランペットらしき楽器の練習をし、公園にいる全ての人々がその音色を受け入れ、応援しているようだった。努力する姿というのは美しい。
また、遊具のある広場では、多くの子ども連れが日曜日の始まりを楽しんでいた。やはり休日の代表格は日曜日であると思った。大きな人々に囲まれながら遊ぶことのできる安心感というのは、何事にも代えがたい、小さな人々の特権であり、守られているという無意識の居心地の良さを思う存分に噛みしめてほしいと勝手に願ってしまう。実は、ブランコに堂々の乗れる時間というのも実は限られていて儚いものだと伝えたいのだが。大人になってもブランコは乗りたいと思う。
また、ある中年男性はテーブルとベンチがセットになった場所で、新聞を広げて何かを熱心に書き込んでいる。別の中年男性の二人組は、池に浮かぶマガモを眺めながらお弁当を食べている。またある女性は、まるで魔法使いかのような素振りで、土鳩や雀にパンのかけらを広げている。
この公園は、本当に春が似合う公園だと、周りを見渡しながら思う。
そんな私は、一人で、鳴き声を頼りに樹に留まる鳥を探したり、片方だけ付けたイヤフォンから流れる音楽を口ずさみながら歩いたり、土鳩のカップルをカメラに収めたり、池のほとりに凛と佇む大きな鳥(名前が分からない)にテレパシーを送ったりと、次から次へと目に入る物事や、体に流れ込む音楽や周辺の音に大忙しだった。
公園というのは、その周辺に住む人々で埋め尽くされるというのが理想だなぁとやはり思う。わざわざ電車に乗って、車に乗って、行くようなものではなく。生活圏の中で手軽にアクセスできる人々によって利用されるというのが、本当に愛される公園であり、公園の正しい愛し方でもある。
橋の上で BACK TO THE FUTURE
洗濯機が仕事を終えるのを見計らって家に戻る途中、細い橋の上で唐突に脳内がBACK TO THE FUTUREを起こした。脳内で起こるBACK TO THE FUTUREとは、文字の通り、昔の記憶が脳内再生されるということである。
行きは少し大きな橋を渡ってこの公園に向かったのだが、帰りはなぜかこの細い橋を渡りたくなった。たまたまという理由もある。
葉桜を通り越して緑。見下ろすとそんな桜の木々が並び、その間を流れるこの川の流れはとても穏やかだった。晴天の下では、その緑と群青がとても生き生きとして輝いていた。本当に理想的な日曜日の正午前であった。
川の横を歩くことができる整備された河川敷。その河川敷にふと目をやると、小さな女の子が二人いた。一人は自転車を跨いで、もう一人は自転車に並んで歩いていた。恐らく姉妹と思われるその二人を見て、SF映画でいうところの「ドクン」という衝撃を受けた。
「ドクン」という衝撃とともに私の脳内に走ったのは、幼いころの私と姉の記憶である。
もう姉との幼いころの思い出なんて何も思い出せないはずなのに。思い出したのは、昔住んでいた家の近所にある雑木林の中に零れ落ちる太陽の光。それ以外には特に思い出すものはなかったが、その雑木林の奥に差し込む太陽の光は、同時に同じ時間を一番身近な視線で過ごした姉を思い出させるのだ。
今は別々の場所で暮らしている私と姉。これといって頻繁に連絡を取るほど仲が良いわけでもなく、別に近くにいなくても困らない。そんな姉に唐突に会いたくなった。
誰か分からない幼き姉妹から、昔よく見た近所の雑木林を思い出し、そこから姉を思い出すというなんとも変な流れであるが、それらを思い出すまでの一通りの流れはとても早く、瞬きをする一瞬の間で終わってしまうほど、短かった。だが、その一瞬ですべてを思い出したかのように、私が感じていた姉の存在感を帯びた空気というものが唐突に恋しく感じた。存在感を帯びた空気。子どもが親の存在感を無意識に感じながら公園で遊ぶかのように、私は姉の存在感を帯びた空気というものを無意識ながらに居心地の良いものだと感じていたのかもしれないなと、今、このキーボードを叩きながら自分の新たな気持ちに気づくのであった。
どれだけ頭の中に残しておこうとしても、消えていくのが記憶であり、不意に現れるのも記憶である。だが、何十年も前の景色や記憶というのは数えられるほどしかシーンとして残っていないのかもしれない。姉との記憶を思い出せないという事実が、静かに現れた日曜日でもあった。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?