パンケーキ
都内にある某有名パンケーキ屋に1人の男がいた。スマホに目もくれず、ただひたすら店内に広がる小麦と砂糖の焦げた匂いに全神経を注いでいる。
平日の昼下がり、周囲にはうら若い女性しかいない。しかし男は平然としていた。人間死ぬ時は独りである。男はこの程度の羞恥でどうにかなるような生き方はしていなかった。
毎月行われるライブ活動、頭を悩ますゼミ研究、全く効果のみられないダイエット、お局に陰で嫌味を言われ続けるバイト。全てはこの日のパンケーキのためにあるのだ。
メニューは既に決めていた。Instagramで写真を舐めまわすように見返し、セットメニューやトッピング、価格まで指にインクが付くほど調べ尽くしていた。
場は整えられた。後はブツを胃に入れるだけだ。
1呼吸を置いてウェイトレスがパンケーキを運んできた。黄金に輝くまん丸のケーキとそれを覆い尽くす飴色のメープルシロップ。そしてセットで頼んだアイスコーヒーがプレートの上に置かれていた。
男は動じていないようにみえた。しかし実際、脳内を支配しようとする芳醇な香りを理性で押さえ込むのに必死だった。飛かける意識の中、辛うじてスマホを取り出し10枚ほど角度を変えて写真を撮る。
フォークを手に持ち、生地にそっと触れる。ナイフを使わずともフォークの自重だけで崩れる生地。もう我慢が出来なかった。
男は宇宙を見た。
口にいれたかどうかすらわからなかった。ただ脳内の神経細胞であるニューロンの一つ一つが喜んでいるのを感じ取っていた。すかさずアイスコーヒーを流し込む。水出しのスッキリとした味わいが口の中を洗い流す。男はテーブルの下で小さくガッツポーズをした。
この時点でこのパンケーキは完成していた。ここからは収穫低減の法則に従いゆっくりとゆっくりと時間が流れていった。
ご馳走様でした。
男は祈るようにそっと手を合わせた。また来よう、絶対来ようと心に誓い。男は帰路に着いた。
男はまた1人パンケーキを求め都内を練り歩く。