実存主義についての解説_中編_キェルケゴールの実存主義とは_その2
今回も実存主義です。
以下から読むのをオススメします。
1・前回のあらすじ
キェルケゴールには、主に2つの功績があります。
前回では、カントのような客観的な真理(万人にとっての普遍的な真理)ではなく、主体的な真理(自分にとっての主観的な真理)を生み出したことについて書きました。
今回はもう一つの要素_キェルケゴールによるキリスト教の改革について述べていきます。
2・キェルケゴールは何をしたかったのか
彼の生い立ちや書籍の概要を見てみると、筆者の感覚ですが、彼はカントへの挑戦よりも、もっと重大な命題を抱えていたように思えます。
それは、キリスト教の改革、厳密に言えば、「クリスチャンの、キリスト教に対する意識の改革」です。
因みに、このキリスト教界というのは、キェルケゴールの用語になります。
このワードを理解すれば、彼が何をしたかったのかが良く分かります。
つまりキェルケゴールはキリスト教に、新たな信仰心や、ある種の真剣さを作ろうとしました。では、それは何だったのでしょうか。
この実存とは、どういったものでしょうか。
キェルケゴールは人間の存在を三段階に分けて解説しているのですが、これがなんと一冊の本に収まっていなく、何冊もの著作に分かれています(!)
そのため、本格的な解説をすると、それだけで2~3000文字は超えてしまうので、ここでは簡素に解説していきます。
人間の存在の三段階とは、
①美学的実存
②倫理的実存
③宗教的実存
になります。
ざっくり解説すると、①で人生を遊びや恋愛に費やし、何れ人生に絶望します。
その次に②の段階で、いつか死ぬという結末にいかに対処するかをします。そのために、自分が死んだあとにも残る「何か」を探します。例えば子供を設けるとか、偉業を達成するとかです。ですが今度は「俺って出来ることに限度あるやんけ…」とまた絶望します。
そして最終的に③の段階で、ひとりっきりで神に向き合う、という選択だけが残ると主張しております。それが主体的に生きるということだそうです。
筆者が読んだ参考書に、綺麗にまとまっております。
3・「単独者」とは
彼の解説や、彼の有神論的実存主義には「単独者」というワードが必ず書かれております。なぜ彼は孤独さに拘ったのかを最後に記載いたします。
これはあくまでも筆者の感覚なのですが、彼の生い立ちが非常に影響しているような気がしてなりません。
というのも、彼には不倫を働いた父の存在がおり、彼の罪悪感が、幼いキェルケゴールへの厳格過ぎる宗教教育へと向かったり、その父と兄の憂鬱具合に嫌気がさして、当時の大学教授の年収ほどの借金をして娯楽に耽ったり、兄弟姉妹が次々と死んでいったり、挙句の果てには、本格的な執筆活動_つまりは神へ仕えるために大好きだった恋人との婚姻を破棄したり…何というか、彼が実存の三段階を編み出したのには、自身の経験がかなり反映されているように見受けられます。
4・感想
彼に関する解説書を読んでて真っ先に思ったのは、「この人大丈夫なのか…? 」という感情と、マックス・ウェーバーの「脱魔術化」についてでした。
キェルケゴールはデンマーク出身なので、国教はプロテスタントになります。プロテスタントはカトリックに反発する形で、マルティン・ルターを支持する人々が立ち上げました。ルターは16世紀のキリスト教のカトリック聖職者の堕落問題、特に贖宥状(しょくゆうじょう。お金を払えば罪が消える魔法のアイテム)の廃止を訴えた宗教改革者の派閥になります。そのことはプロテスタントの語源であるprotestatio(抗議書)からも読み取れます。
彼がそう思ったかは定かではありませんが、彼のような真剣で、熱心な信徒からすれば、先人たちが築き上げてきた歴史や伝統に対して
「周りの人々はなぜこうも堕落しているんだ!私がこの状況を変えてやる!」
と怒りを持ってたとしても、特段驚きはしないです。
話は変わるのですが、先週は仕事や動画作成などで時間が足りず、ヤスパースの実存主義を書ききれなかったため、次回、ヤスパースの有神論的実存主義を解説したのち、改めてキェルケゴールとヤスパースの実存主義の比較をして、最終的には有神論的実存主義と無神論的実存主義の比較で締めくくろうと思います。
今回も目を通していただき、ありがとうございました。