ド・メーストルの社会正義とは

今回は、ジョセフ・ド・メーストルの社会正義について考察していきたいと思います。
彼は宗教学者や宗教家でありませんでしたが、18世紀にカトリックによる権威主義を継続させるための国家的理論を構築した、結構過激なお方です。


1・ド・メーストルという人物

ジョセフ・ド・メーストルは18世紀のフランスの議員・外交官・司法長官を務めておりました。
彼は主にフランス革命と啓蒙思想を批判し、国家の秩序には革命は不要で、国家と教会との決定が全てである!というロマン主義兼キリスト系右派の論客になります。中々濃い方ですね。
簡単に思想を解説すると、国家と、特に教会による権威のみが、社会を維持できると捉えておりました。

2・ド・メーストルの社会正義

さて、そんな彼は社会における正義をどう解釈していたのか。
非常に分かりやすい箇所を見つけました。

合理的人間は自らの快を最大に、苦を最小にしようとする。だが社会はこのための道具ではまったくない。それはそんなことよりずっと基本的な何ものかに支えられている。永遠の自己犠牲、家族や都市、教会や国家のために快楽とか利益を無視して自己を捧げようとする人間の傾向、社会の連帯を示す祭壇にわが身を投げ出し、聖化された生の形式を守るために受難し死んでいこうとする熱意、こうしたものに社会は支えられている。

アイザイア・バーリン『反啓蒙思想』p105

思えば、一見、革命やデモというのは、社会を良くしたい!という意思で執筆や研究をする社会学者よりも、正義の形がかなり分かりやすい部類に入ると思います。ですが、個人的には分かりやすいから善い、とはあまり思えません。
結局のところ、社会のために学問や研究をする学者や、普段から見回りをしている警察官や、日夜トレーニングをしている消防士や自衛隊員、子供が好きという理由で仕事をする保母さん、ボランティアに従事する善良な人、などなど、我々の普段の生活のなかにある、一見地道な正義が、結果的に社会の秩序維持に貢献しているように思います。
革命やデモは、あくまでも問題が表面化した段階に発生するアクションですが、自分たちに損失が被るまで問題を放置したから行う、仕方なしの正義であるケースが度々顕在されるので、私は評価が出来る革命やデモは、個人的には少ないと感じます。
その点においては、私の思う社会正義と、ド・メーストルの思考には類似点があると感じました。

3・感想

一応補足しておくと、筆者はド・メーストルの他の理論を全面的には支持してはいませんが、この箇所に関しては、心を動かされました。「確かに、その通りだよなぁ」と。
さて、そんな彼ですが、本来なら彼のフランス革命に対する見方や、後の政治学用語である決断主義の形成に影響を与えたり、摂理主義の解説をしたいのですが、ロマン主義者としてのド・メーストルと、カトリックとしてのド・メーストルを分けないと、物凄く文章がながくなると感じたので、このような書き方になりました。その他の概念については、次回以降に回す予定です。


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