脱魔術化とは?
今回はマックス・ウェーバー先生が提唱した「脱魔術化」について解説していきます。
というのも、この概念は全ての宗教関係者が知っておかねばならない、非常に重要な概念だからです。この言葉が出てきてから120年経ちますが、未だに人類が解決していない諸問題を含んでおります。
① マックス・ウェーバーとは
彼は19世紀ドイツの社会・政治・経済学者になります。
ですので、社会科学の分析の方法論を編み出したり、政治における権力の分類化を行ったり、古典派経済学に対する反論を試みたりしました。
宗教家でも宗教学者でもないウェーバー先生が、反科学的な内容である宗教に社会科学的なアプローチをかけたのが、個人的に面白いなぁと感じました。彼の書籍の多くは非常にページ数が少なく、フランス系の社会・哲学者に見られるような冗長で難解な書き方をしないため、非常に読みやすくオススメです。
② 脱魔術化について
では本題に入ります…と言いたいところですが、実はこの「脱魔術化」というワードは2冊の書籍―『職業としての学問(以下「職学」)』と『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(以下「プロ倫」)』に登場するのですが、それぞれ同じ言葉を使用しているのにもかかわらず、意味が異なったり、プロ倫の初版では登場してなかったり、結構ややこしいため、今回は宗教社会学における「脱魔術化」について解説します。
歴史的経緯
ではでは、本題に入ります。
このワードが誕生したのは、先程にも説明しました19世紀ドイツになります。この頃のヨーロッパでは宗教的な意味しか内包してなかった科学が、我々現代人が普段使用している意味での科学へと転換した時代でした。つまりは「神や真理を探究するための」科学が、「現実世界の原理を解明するための」科学に変わったのです。昔は空の上に天国がある、と信じてきたが飛行機やロケットの開発でその幻想が壊れて、海には果てがあり、端っこに進めば永遠と落下してしまうと恐れられたが、地球はどうやら球体だったことが分かったりしました。
つまり、科学が自然現象を合理的に解明した結果、宗教の正当性が揺らいでしまったのです。キリスト教の教えという精神的支柱・ヨーロッパ人のアイデンティティが消失したため、凄く暗い時代になってしまいました。ニーチェが「神は死んだ」と言ったのには、それなりの論拠があったのです。
つまりは、「脱魔術化」とは一言で言えば「非宗教化」になります。
また、「脱魔術化」を図らずとも推進したのがウェーバー先生になります。
「脱魔術化」の方法
ウェーバー先生はどのようにして、「脱魔術化」の理論を構築したのでしょうか。それには、社会科学の分析方法として先生が編み出した「価値自由」について解説していきます。
・価値自由とは?
→社会科学には、認識の客観性を保つために、事実と価値を分けて主観的な価値観から自由になるべき、という捉え方のこと。
対象が…
事実→何であるか
価値観→何であるべきか
を分けることで、事実のみを抽出可能になる。
例えば
ナイフは…
事実→対象を切断する
価値観→昔指を切ったから私は触りたくないし、子供が触るべきではない
というように分けることによって、「ナイフとは?」という質問に対し、事実ベースで答えることによって、より明確な解答が出来ます。
かつて、ひろゆき氏が言った「それってあなたの感想ですよね?」という言葉をさらに細分化するなら「それってあなたの価値観が先行してませんか?客観的なデータをベースにせず、事実と主観ががごっちゃになってませんか?」になると思われます。議論や真理の探究、正確な定義をするに於いて、私もこの分けるやり方には合理性を感じます。
・社会科学とは?
→社会の人間行動を科学的、体系的に研究する、経験的な現実の思惟的整序。
この価値自由の考え方は、宗教を「脱魔術化」することが可能です。
それは、世界の意味を消滅出来てしまう、という副産物です。
どういう意味かというと、科学や哲学により、今までは宗教で説明していた自然現象に、理性的なアプローチが可能になりました。
そのため、自然現象は神が起こしたものではなく、あくまでも「現象=ただ存在するもの」へと変換していき、科学が宗教の代わりに真理の座に就くことになりました。
ここまでのまとめ
宗教vs科学が発生し、科学が宗教に取って代わる時代が近代であり、これを「脱魔術化の時代」と呼びます。
③問題点
教義のメリット
近代化の弊害として、あらゆる事柄が科学により解明される毎に、世界や個々人の生きる意味が消滅してしまいました。それによって、自分たちの人生を自分たちで(かつて神や宗教がそうしてくれたように)決めなければならなくなった。脱魔術化以前の世界では、宗教が人間の生きる意味(価値観)を与えてくれた。
例えば旧約聖書には「産めよ、増えよ、地に満ちよ」という文言がありますが、この教義のおかげで結婚が促進し、家庭を育み、子供を沢山産むのが正しい、という考えになります。さらに当時は、子孫を残す以外の性行為を望むべきではない、と解釈した結果、中世ヨーロッパの人々の性に対する倫理観の向上にもつながりました。その時代には、同質性がより重視され、異質な意見(神以外の意見)が排除されやすい、結果的に同性愛の迫害の正当化に繋がる、という問題点はありますが、現代社会では、人々の価値観は個々人が決めるのが一般的になった代わりに、不倫や不貞行為に関する意識は、数世紀前のヨーロッパ人の方が高かった可能性があります。宗教は、その社会の規律や秩序を提供出来るという大きな利点があります。不倫のようなミクロな規範のみではなく、我々は何故生きるのか?何故苦しむのか?という人生それ自体が関わる大きな疑問には、宗教が価値観を提供してくれました。しかし脱魔術化によって、それも弱まってしまった。
一番の問題点とは
それは、科学が宗教の価値観を追いやったにもかかわらず、科学には宗教の代替わりが不可能である、という点です。
例えば、ある女性に愛する夫と息子がいたとして、家が火事になり家族を失ったとします。
ここでの科学の役割として「何故火は燃え広がりやすいのか」「どのようにして出火したのか」等の自然現象の説明と証明は出来ますが、それ自体は「家族を失った未亡人」の心を救うことはできません。一方で宗教には「火事の意義」や「家族を失う・失った後の意味」を提供することができます。
この話で重要なのは、彼女にとっての重要事項は何なのか、です。もしも彼女が死んだ家族の分まで生きる、という選択を取るにしても、結果的に自殺を選択するにしても、それ以前に家族を失った意味を彼女自身が見つけ出せない場合、彼女に寄り添えるのは、複雑なアルゴリズムではなく慈愛の精神でしょう。私にはまだ、全ての人間が自分の価値観を自ずと生み出し実行出来るレベルまで達しているとは到底思えませんし、現代の科学技術の発展速度に人間の心がついていけてないと感じます。
であるからこそ、宗教の現代的意義は失われてはいないと思います。
④解決策はあるのか
3つのアプローチ方法
ここからは、私の意見も交えて解説していきます。
宗教が不在で、科学には頼れない、となると我々は以下の方法で人生に意味づけをしなければならないと感じます。一つずつ見ていきます。
(1)科学や学問に宗教の代替わりを行わせる
これにについては議論の余地はないように思えます。もし科学や学問が宗教的な性質を帯びようものなら、それは科学や学問ではない’’何か’’であるし、そもそも論ですが、科学や学問はその性質上、合理主義を放棄することなど不可能です。
(2)宗教の再臨
これに関しては、「再魔術化」という用語があり、宗教への回帰が世界各地で起こっています(ISISとかが該当するのでしょうか)また、ウェーバー先生は近代社会のことを「神々の闘争」の時代とも表現をしており、どっちに転んでも、(人類は科学を捨てきれない以上)依然としてカオスなままだと思われます。
・世界の再魔術化
→科学による近代化(偶然性、無価値が支配するカオス)から、個人にとっての価値観のある世界のために、自ら魔法にかかりに行き、秩序の再編(コスモス化)をすること。必然性再起運動とも言えるでしょうか。
・神々の闘争
→宗教による(神の)価値観の統一が、科学によって相対化された結果発生した概念。価値の多元化(神々の発生)により、価値観の対立も多元化した現状を皮肉った。神々の誕生は同時に、打倒すべき悪魔達の発生も意味する。ちなみにウェーバー先生は、神々の闘争、多元化した価値観の調停は不可能と述べています。
(3)個人が自力で意味を作る
これについては、哲学の領域では以下に該当するかとおもわれます。
・冷笑主義 →世界を皮肉ることで生きながらえること。ニーチェの用語。
・厭世主義 →世界は悪意と悲劇の繰り返しと解釈し、無気力になること。ショーペンハウワーやシオランなど
・反出生主義→性悪説以前に、人は生まれること自体が倫理的問題を孕んでいるから、いずれ人類は絶滅すべき、という主張。ベネターなど
・超人 →新たな生き方や価値観で前へと進む人間のこと。ニーチェの用語。
・実存主義 →「主観的な真理」を目指す、信奉するイデオロギー。キュルケケゴールやサルトルなど。
⑤感想
私が初めて「脱魔術化」というワードを知ったのは大学1年生のころだったと記憶しております。その頃は、親戚関係や家庭内の新興宗教に関する嫌なエピソードの影響で「脱魔術化」は素晴らしい、と捉えておりました。しかし、社会人として生きていくうちに、自身の社会不適合者っぷりに嫌気が差し、その時に初めて、宗教に生きる意味を見出す人の気持ちが理解できたのだと思います。別にこれは私のようなタイプの人間でなく、社会で普通に生きられる人にも当てはまると思います。
そもそもの話、仕事が生きがいの人間は少数でしょうし、多くの人は「俺って何のために働いているのだろう」「私の仕事って何の意味があるの」等々疑問を感じて生きているはずです。恐らく人間という生き物は、自分のためだけに生きられるように設計されていないような感覚があります。誰かのため、使命のために命を消費する本能的な輝きを有しているはずです。科学にはそれを推し量れる作用はないと考えられます(科学を否定する意図はありません)。ですので、少なくとも私は宗教に回帰する、という再魔術化の流れは人間感情に照らし合わせるなら、ごく自然だと捉えております。
出来ることなら、全ての人が、自力で生きる意味を作るのが、一番健全だと思っておりますので、そうなるように今は祈るしか出来ない自身の無力さを苦々しく噛みしめながら、締め括りとさせていただきます。
次回は④の(3)に出てきたワードである実存主義や反出生主義などの用語を解説予定でございます。