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日本人の国際的ピアニスト第1号の小倉末子がマイナーなのはなぜか?

小倉末子というピアニストをご存知でしょうか?(なんか別のところでも似たようなかきだしをしたような、、、
とりあえず、6年ほど前にNHKの「歴史秘話ヒストリア」の「ぴあのすとおりい」の中で紹介されていて、これ自体がまだ小倉末子の事績を再評価する最初期の頃って感じだったようです。

日本の西洋音楽史上でいえば、日本人で初めて海外でも評価されたピアニストといってよいでしょう。生まれたのは1891年(明治24年)2月18日、ちょうど今月が生誕125年でもあったわけですが、亡くなったのが太平洋戦争末期の1944年(昭和19年)、53歳でした。
およそ100年前にヨーロッパに留学し、その後、第1次世界大戦を避ける形でアメリカに渡り、その地の音楽院でピアノ講師となった点でも、海外で音楽教師になった最初の日本人であり、ニューヨークのカーネギーホールの小ホールとはいえ、日本人で初めてカーネギーホールで演奏した(ちなみに三浦環がここで歌うのは4年後、小倉末子と同時期に渡欧してた山田耕筰が自作演奏会をここで開くのが6年後)と思われる人物でもあります。
そして26歳で東京音楽学校(現東京芸術大学)の教授となり亡くなるまで27年間教員として演奏家として日本のピアニストの実力トップにいた、そんな小倉末子がどうしてここまで知られていないのか。

あっさり答えを書いてしまうと、

録音が残っていないこと
亡くなったのが太平洋戦争末期だったこと
ということになります。

録音が残っていないのはある意味、不思議でもあり不運でもあります。ラジオ放送には亡くなるまでに20回近く出演して演奏していますし、その他に録音の機会がなかったのかな、とも思います。
そして、亡くなったのがすでに日本の雑誌などメディアが統合され規制され、印刷部材も枯渇していた時期。訃報も新聞に少し載っただけ、というのも、記憶に残りにくかった大きな要因のようです。

私が小倉末子というピアニストの存在を知ったのは、中島健藏「証言・現代音楽の歩み」を中学時代に読んだときです。
(余談ですが、日本の現代音楽に関心がある人には古本で見つけてでも必読の本です。ある時代と日本の現代音楽の萌芽と成長を専門家ではないながらとても近くで実地に見た人の証言としてとても貴重かつ面白い。そしてこの本の中の三善晃「レクイエム」初演の話はよく知られたエピソードですがぞくぞくきます)

中島氏の本の中では2ページほどの記述ですが、1918年12月16日の小倉末子がベートーヴェンのピアノソナタと変奏曲をプログラムとした演奏会、同月21日の久野久子のベートーヴェンピアノソナタ演奏会(悲愴、月光、テンペスト、ワルトシュタイン、熱情)を続けて聞きにいったこと、そしてその感想が書かれているのです。
当時15歳の中島健藏の感想も興味深いのですが、それよりも私にはこの100年前にベートーヴェンを弾いた2人のピアニストのことが印象付けられたのでした。

年譜を見てみると、小倉末子はすでに欧州留学とアメリカでの成功から戻って2年経っており、前年すでに東京音楽大学の教授に26歳で就任もしています。一方、久野久子は前年、小倉末子より半年遅れて31歳で教授に就任したものの留学はしておらず、5年後にやっとドイツに留学はするものの、さらに2年後、39歳でバーデンバーデンで投身自殺を遂げます。

小倉末子と久野久子が当時人気を二分したピアニストのであったのは間違いなく、上に挙げた2つのコンサートのようにベートーヴェンのピアノ曲でリサイタルを相前後して開ける実力あるピアニストもこの2人のしかいなかったであろうことを思えば対比されるのも不思議ではありません。

小倉末子は神戸居留地の貿易商の令嬢であり、兄はドイツ人と結婚し、その女性から洋的な振る舞いを身に付け、神戸女学院で若くしてピアノや音楽を学び、その才能の高さから東京音楽大学にも予科を飛ばして本科に入学し、入学後半年で退学し、そのまま欧州留学、アメリカでの演奏活動と教師経験を持って、日本に戻り教授になるという、まさにエリート的経歴の持ち主です。
久野久子は裕福な家庭に生まれたものの、足が生まれつき不自由なところがあり、ピアノに出会うのも16歳になってから、東京音楽大学の予科に入学後、苦労の末、授業補助、補助教授と徐々にステップアップし、その情熱的演奏スタイルで人気を博し、31歳にして教授になった苦労人です。

女性の美醜を述べるのはよくないことかもしれませんが、今に残る写真や当時の記述を読んでも、美貌で洋行帰りで洋装が決まった小倉末子と、どちらかというと美しさよりその取り憑かれたかのような演奏スタイルで人気を持ち、足の不自由を隠すために和装で演奏していた久野久子は、そういう面でも好対照だったのかもしれません。

このように当時はまさにピアニストの双璧であった2人であっても、今は明らかに知名度としては、久野久子の方が圧倒的に高いといえます。
インターネットでいろんな情報を見つけることができる現在では、小倉末子についての情報も見つけることができるようになりましたが、以前は全くといってよいほどありませんでした。(冒頭に述べたようにこの5年でやっとという感じでしょうか)
この差は、結局は久野久子の自殺という悲劇的な死によって引き起こされたことなのでしょう。

久野久子については、死後に音楽学者兼常清佐が書いた、ある種冷酷といってもよい日本人の演奏家のレベルを国際的に相対評価した「久野女史をいたむ」(青空文庫で読むことができます)がありますし、最近でも中村紘子の「ピアニストという蛮族がいる」の極めて恣意的と誤解に満ちた記述であるにせよ目に触れる機会があると言え、やはり世間には関心を持たられるピアニストは久野久子の方がという感じがしてしまいます。ネット上でも久野久子について書いている人は多く、(特にこちらのサイトの、久野久子は交通事故にあった時に高度脳機能障害になっていたのではないか、それが後の性格的な激しさやいろいろ行動が不自然だと思われる原因ではないかという仮説はすばらしいと思いました)なんだか小倉末子がかわいそうになるほどです。

しかし、ほぼ同時期に活躍していた頃の両者のプログラムをみても、小倉末子の方が演奏家として演奏する回数は多く、久野久子はベートーヴェンを偏愛したかのようなプログラムであるのに対し、小倉末子の方がずっとプログラムは多彩です。もちろん海外経験のおかげだとは思いますが、留学後、1916年からはドビュッシーを何度もプログラムに入れているところは特筆ものではないでしょうか。(ドビュッシーが亡くなるのは1918年ですから、現代音楽だったわけですよ!)
さらにシンディングやラフマニノフを度々取り上げていますし、たった1度とはいえ、シェーンベルクのピアノ曲作品11もプログラムに入れています。1920年以前ですよ!
プログラムはそれほど広範囲ではないとはいえ、このようなプログラムを組んで当時演奏したピアニストとしてももっと注目されてよいと思うのです。

久野久子は39歳で自殺という形で客死してしまいますが、小倉末子も太平洋戦争末期、音楽家たちの活動が制約される中、1944年9月に死去します。体が弱っているうえでの睡眠薬の過剰摂取が原因とされていますが、自殺ではないかとも言われているようです。1943年には教授から一度、無給講師になったり、1944年6月には戦時体制下、音楽学校、美術学校の教員は戦時協力的ではないということで全員辞表を出さされていることを考えても、そのような心労もあったのではないでしょうか。その意味では、小倉末子も追い詰められて死んだという点では久野久子と同じだったのかもしれません。

日本のピアニストは、幸田延から始まり、その次の世代で海外に出たのが、小倉末子、久野久子だったといえます。
そしてその次の世代で原智恵子が1936年にショパンコンクールで聴衆賞を取り、梶原完が海外をベースに活躍する日本人初のヴィルトゥオーゾとなり、国内では井口基成がピアノ教育の基礎を築き上げることになります。その流れでみても、小倉末子はまさに国際的に日本人ピアニストが出て行く最初であり、それを実現し、結果も残し、門下生も育てた優れたピアニストだったことがわかります、なのに、これほど知られてないのはとっても残念なことなのではないでしょうか。

そんな小倉末子について書かれた本は、2011年に東京芸術大学奏楽堂で開かれた「ピアニスト小倉末子と東京音楽学校展」に合わせて企画、執筆されたものくらいしかありません。この展覧会は小倉末子が東京音楽学校に入学して100年を記念して開かれました。その一生が多様な資料とともに書かれた本なので、興味を持たれた方はぜひ読んでみるとよいでしょう。(以前紹介した「わからない音楽なんてない! 子どものコンサートを考える」の著者津上智実氏(というか、小倉末子の再評価を始めた方なのですね)が執筆者の一人です)

あと、ネットを見ていたら、小倉末子、久野久子それぞれが愛用したピアノがまだ残っているようです。
小倉末子が亡くなる時まで使っていたピアノについてはこちら
久野久子の遺品のピアノについてはこちら

やはり、録音が残ってないのが返す返すも残念ですね。。。

(了)
本文はここまでです。
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