占いを始めて思ったこと
「最近、何をしているの?」
友人たちとの何気ない連絡で、よく聞かれる言葉。
きちんとしたカメラで写真を撮ることを始めたので、写真を撮りに行く話をする。
忘れっぽいのか、思い出が美化されてしまうのか、残しておかないと私の中での思い出が共有できないと思い立ち、写真に残すようになった。
最初はフィルムカメラで写真を撮っていたけれど、現像になかなか行けず。
スマホもカメラ機能が良くなれば写真を撮ると思っていたけれど、現状はメモ代わりの写真ばかりがフォルダに入っている。
そんな生活を変えたかったので、たまたま調べていたカメラを買って人を撮るようになった。
カメラの趣味は、人を明るくさせる。
たぶん、とっつきやすく話が広がるしどんな写真を撮るのかで人が分かるからだろう。
ここで冒頭の問いに戻る。
「最近、占いを始めました」
そういうと途端に怪訝な顔をされる。
まだ何も話していないのに。
良いと言ってくれた友人はやはり私をわかってくれており、そして哲学的な話をする人だった。
“占い”という単語が新興宗教的ないわくつきのような反応をされるとき、「当たるか当たらないか、自分の人生は自分で決める!」といったような固い意思をお持ちの方が「はまりすぎないように」と最後に付け加える。
私は自分を、人を知りたくて、哲学的な自己開示のために自己診断をする。
その先が占いだった。
決められないのではなく、決めるために占いをするし、その判断で「自分はそうじゃない」「この結果は嫌だ」そう思ったのなら、それが自分の意志だと思う。
占いを勉強して、“いろんな解釈がある”から面白いのだと気付いた。
タロットカードの意味も、数秘術の数字の印象もまとまりのようなルールはあるけれど、やはり占い師の印象でその伝える言葉が変わる。
ボードゲームに“DiXit(ディクシット)”というものがある。
語り部が手持ちのカードに物語をつけて、相手がその意味合いに近いカードを出す。
そして、語り部のカードはどれかを当てるといったゲーム。
ボードゲームにもはまっていたので、タロットカードはこのゲームに近いような気がする。まるで大喜利のようでもある。
俳句もそんな感じ。
見たものをそのまま見せるのではなく、言葉で映像を映し出す。
そういう色んな解釈ができるということが、芸術的でもあるような気がする。
自分の思いではなく、占いが出したものを語り部として伝える。
そういうところが私に合っている。
いろんな解釈があるので、これが間違い!というのもあると思うけれど、
映画のラストシーンの考察を見ているようで、私はそういう読み方もあるのだな、と。
なので、占いって…と怪訝に思う方もいますが、今一番楽しいことは占いをすることです。
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