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文化の可変性

時々、スポーツ指導者の方向けに講演会を行う。そこで文化の可変性についてよく質問を受けるので、ここで私見を述べておく。

よく受ける質問。

”これだけインターネットが普及したりして、情報が民主化した中で、文化は一つになっていっているのではないか。”

結論、それは文化のどの側面を捉えるかによるということ。
 
まず、文化は可変し、グローバライゼーションの中で、文化が一つになってきているという主張に沿って、話をしてみる。例えば、日本などの東アジア人がよりアメリカ人のように個人主義的になっているという論を展開している論文がいつかある。例えば、日本人の親は、昔に比べてユニークな名前をつける傾向にあることがわかっている。確かに一昔前は、キラキラネームなるものが流行った。これは、大袈裟な例だとしても、一見読めない名前が増えていることは実感できる。大きな目で見れば1991年生まれも、最近の名前といっていいのかもしれないが、悠杜という同名の人には未だ会ったことがない。これらの傾向は、皆と同じではない、唯一性の高い名前をつけることは、個人が目立つようような個人主義的傾向の現れであると意味付けることが可能である。また、離婚率の増加や世帯サイズの縮小化という観点から、日本人は個人主義的になっていると主張する論文もある。これらも人々が周りと繋がるよりも一人でいることを大切にしている個人主義が文化として根付き始めていることの現れであると解釈することが可能である。

ただ、これらの現象を、個人主義が促進していることと同意であると結論づけることは注意を払う必要があるように思う。例えば、日本では結婚率が減ってきていると言われている。これも一見すると日本人は個人主義的になっているのだ、と結論づけることができるかもしれない。つまり、結婚して同居人を作るよりも一人を楽しみたいという個人主義の現れと捉えることが可能である。ただ、どうして日本人は結婚しなくなったのかを考える必要もあるように思う。当の本人も32歳にして結婚をしていないその一人であるが、個人的には「結婚はしたいものの、研究活動が阻害されてまで、結婚はしたくない。そのバランスが大事。そもそも現在の月給が10万円台なので、自分の生活で手一杯。デートできない。貯金て何?美味しいの?」が理由である。これを個人主義と呼ぶのか問題がある。つまり、社会指標として個人主義に見える傾向も実はそうしたいわけではなく、そうせざるおえない事情があるかもしれない。こういった場合、社会的指標と人間の考えに齟齬がある可能性がある。こういった事情は、名前のユニークさ、離婚率の増加、世帯サイズの縮小にも言えるかもしれない。

また、離婚率、世帯サイズ等の社会的指標ではなく、実際に人からデータを取った研究では、現代でも日本人は集団主義的であると結論づける論文が多いように感じる。例えば、自分をどれくらい周りの人との関係性の中で定義するか、感じやすい感情、グループ内の秩序の重要性など、これらの指標を日本人と北米人とでデータを取ってみると、やはり、日本人は集団主義的な傾向があるという結果が出ている論文が多いように感じる。とはいえ、文化比較ではなく、日本国内で、縦断的にデータを取った場合(例:10年毎に個人主義、集団主義の指標を取る)、どういった変化が起こりうるのかをみてみることは興味深いことである。また、前述の話に戻れば、名前の唯一性、結婚率の低下、世帯サイズの縮小という環境要因に人間が適応しようとして、個人主義を促進する可能性もあるだろう。例えば、「どうせ結婚できないのだから、一人をどう楽しめればいいか考えよう」といった環境への適応を考え始めることは今後あり得ることであり、個人主義を促進するものであると言えるかもしれない。
 
なので、最初に戻るが、文化のどの側面を切り取るかによって、もしくは文化という言葉の定義によって、文化の変わりうるし、変わりにくいと言える。

というよくある質問への回答でした。


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