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飽きの利用方法

今日はお日様が出なかったので、寒い日になりました。そんな日は家の中でもマフラーで過ごすと経済的だと思うえんじろうです。

さて今回は、人はどうして飽きるのでしょうか?色々なことに挑戦しても、結局飽きが来てどうでも良くなってしまうような経験、皆様にもあるのではないでしょうか?今回は飽きについて「飽きるまで」考えてみましょう。

飽きるまでの行程

早速ですが、えんじろうが感じる「飽き」発生のメカニズムを話してゆきましょう。それにはそこまでの行程を順を追ってみていくのが判りやすいと思うのです。

画像 左右に卵が乗った天秤

新たな体験

初めてオカリナに触れるような生徒さんがいたとします。その方にとってオカリナの名前の由来やどこで生まれたのか、そして何でできているとかと言った知識の1つずつどころか、触り心地や色のバリエーション、音や息の感じなど。とにかく触れるものや情報のすべてが「初めて」です。

ここに新たな「情報量/知識」という比があるとすれば、初心者は今まさに知識を得たばかりの状態ですから、その比率は「1/1」となりますね。
これが何もかもが新鮮で楽しくてたまらない時期の正体だと考えています。オカリナでないにしても、皆さんにもあったでしょ?そんな時期。

時と共に減る分母

そして様々な知識を得たり経験が増えていくに連れて、徐々に「初めて」の喜びの機会は減ってゆきます。比率は「1:6」になり「1:24」になりと、それは新しいことを知れば知るほど分母に加わるわけですから、新情報のインパクトが小さく感じるのは当然なのです。
ところがそんな当たり前のことを、ついつい目先の「真新しさ」だけで比較してしまいやすいのも人間ですね。
その結果、あの頃はあんなに全てが輝いて感じられたのに、なんか最近パットしないな。という気持ちになるわけです。

注意すべきは注目点のズレです。新しい知識そのものの量が小さくなっていないにも関わらず、比率で受け取ってしまうところが問題で、比率で物を見ている限り物足りなさは永遠に強まってゆくのです。

飽きの壁

やがてその物足りなさに耐えかねて「飽き」がやってきます。まっこんなものかな?とか自分の限界はこのへんかな?などとうまいこと言って自分で折り合いをつけた「限界」という言い訳を作り上げます。
そして気がついていないことが多いのですが、限界だとか充分やっただとか、そういったことを思考し始めている事自体が「やめたい」という前提で、その理由を考えている結果なのですよねー。

飽きは悪いもの?

さてそんな「飽き」ですが、悪いことなのでしょうか?

画像 海で1人砂遊びする子供と影

人には生きていられる時間に限りがありますから、その中で本当は何をしたいのかということを絶えず考えている必要があるのだと思うんです。
やりたくもないことを「始めたから」という責任感だけで続けることは、格好良いとは感じません。だって本当にやりたいことだったら、そんな理由めいたことなど考える余地すらないはずなのです。

そう考えるとこの「飽き」というシステムは、自分にとって本当にやりたいと感じているものを振り分け、後悔する生き方にならないための画期的な仕分けの仕組みなのではないかって思ったのですね。

まとめ

あなたが今していることは、本当にやりたくて続けていることですか?
本当にやりたいときには、そんなことすら考えないものだと思います。たとえ比率「1/256」であっても、進歩は進歩で嬉しいのが事実なのです。それに喜びを感じていないのなら、別に頑張って続けたり無理はしなくても良いのかも知れませんよ。

もしもあなたが自分の「飽き」に気がついていながらも、続けることがやめられないのであれば、それはもう周りに格好良く見せたくてやっているだけのもので「抜け殻」なのです。そこに時間を使う必要はないので、もっと飽きとかそんなことを考えることを忘れるような素敵なことを見つける方が幸せだと思いますよ。

画像 たくさんのシャボン玉に囲まれた子供

こう考えてみると、この「飽き」システムは自分のやりたいことを見つけるために良い感じで壁になってくれる便利な仕組みではないでしょうか?
飽きを嫌うのではなく、飽きから自分の本意と時間を救い出すために、仲良く付き合ってゆきたいものですね。

飽きにも感謝ですね。



#enjiro #えんじろう
#飽き #人間 #行き方 #やりたいこと #人生

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