梅のお箸と僕の関係
何かを食べればその味がしばらく残り、洗剤で洗えば洗剤の香りが暫く残る。おらこんな箸いやだ~!となったのがつい先日のことでした。
先日まで使っていた箸ですが、この写真の頃(3年ほど前)はまだ割ときれいでした。最近は色も剥げ落ちて、あちこちに黄色くまだら模様のようなものが出ています。
それでも随分気に入っていたお箸で、適度な重さと美しい四角形が特徴だったのですが、先日そのお箸とお別れすることを決意したのです。
やっぱりね、しっかり洗いまくっても洗剤の香りが残るのは耐えられませんでした。特に白米をいただく際にはほんの少しの香りすら外部から入れたくないのです。
雑貨屋さんで吟味の末
今回は雑貨屋さんのお箸コーナーで実用的なものを探しました。
えんじろう的には箸とは自分の生命の源をいただく際の神器!箸によって命をつなぐ第一歩が始まるわけですよ。だから身を任せるにふさわしいものを探すには、しっかり向かい合って決めたいと思っていました。
好みの箸は?
えんじろうの好みの箸は、いくつか条件があります。
まずは自分の手が大きいので、それに見合う大きめの箸が欲しいこと。更にその太さは重要で、そこそこ太い方が望ましいです。太さと同等に大事なのは橋の形が四角錐になっていることです。丸形は苦手です。四角い箸の面を合わせてしっかりものを掴みたいのです。
そうなると表面が艶がかっていないことも大切です。擦るとサワっとした感触があるような箸が理想的ですね。
更に適度な重さも必要です。軽いと洗い置きの際に浮いて何処かに転がってしまいやすいのです。排水口などに落ちると見つけにくい&精神ダメージを受けます。食べるときの存在感もあるし、安定感も増しますから重さも大切です。
桜の箸
そうして吟味した中で、やや妥協的に決まったのが桜の箸でした。
上に上げた条件の大半はクリアしていたのですが、重さだけが思い切り逆行する軽さでした。どのくらい軽いかというと、それはもう「箸より重いものは持ったことがない」という言い回しを冗談でもできないと感じてしまうほどです。
存在をあまり感じない重さというのが正直なところでしょうか?
意外な発見
買ってしまったからには丁寧に向かい合ってしっかり使い続けるぞと決めたえんじろう。早速食事のたびに感触を味わいながらご飯を頂いているわけですが、ネックだったこの軽さに、新たな感性が芽生え始めてきたのです。
食べ物の重み
重たい箸では何かをつかもうとするとき、その重みを利用して重心を生かした動きをすることで、挟む力を安定させていたみたいなのです。ところが軽い箸の場合、重量を利用できないため手の感覚を最大限に活かして繊細な力加減をしてやらないと、足りなかったり過度な力が入ったりと不安定になるようです。
つまり繊細な力配分が要求されるようになるというわけです。
考え方を切り替えれば、重さにかまけていられなくなった分、自分自身の繊細な箸コントロール力は成長せざるを得なくなったというわけですね。
重い箸のときにはつかみやすいのですが、掴んだものの感触は割とどれを掴んでいるときにも同じようなイメージでした。しかしこの軽い箸の場合、掴んでいるものがどんな硬さでそのもの自身の重心に対してどういった場所をつまんでいるのかまで想像が及ぶようになったのです。掴んでいるものの重さを意識するようになったというのが、軽い箸にした際の一番大きな変化だったように思います。
箸という面倒な仕組み
それにしてもどうして、こんな面倒くさい持ち方で食事を摂るようになったのでしょう?たった2本の棒切れが、複雑な指使いによって洗濯バサミ顔負けの繊細さでものを掴むことができるように変身するのです。もはやマジックのように思えませんか?
日本の文化
僕の中のイメージなのですが、日本人というのはこういったある意味非合理的な行動をすることにちょっとした喜びを感じるのではないかと思うんです。少なくともえんじろうはかなりこれがあります。
目的に対して合理的ではないものの、そういった部分に大切なものが眠っているような感じがして、わざわざ回りくどい手段を選ぼとしてしまったり。そうすることで得た体験をなんか貴重なもののように思えたり。
自分に合うように物を改良するのも良いけれど、それよりも適合できるように自分自身を変える努力をする価値の方がちょっと喜びが大きいというか。
道具との向かい合い方
道具を改造してどうにかするのではなく、それにそぐうように自分を改造する。そんな道具との向かい合い方は、割と好きです。というよりもこれ、どこかで聞いたことのある、自分にとってとても当たり前の感覚であることに気が付きました。
あっこれって、えんじろうのオカリナとの向かい合い方そのまんまじゃないか。道具そのものはとてもシンプルで、それに向かい合う自分が適応してゆくことに喜びを感じるわけです。道具自体はシンプルで良く、むしろその方がやりがいに繋がるというわけです。
楽器との向き合い方
2本の棒を箸という食事に欠かせない道具にしてしまう日本人で良かったなあと感じちゃいました。そして自分のオカリナとの向き合い方に、それがしっかり活かせていることにも、なんだか嬉しさを感じた瞬間でした。
というわけで、今回は新しい桜の箸が、そんなひとつの道具が僕に語りかけてくれたたくさんの感覚のお話でした。
これからこの桜の箸と、美味しい思い出を綴ってゆきたいと思います。