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かっこよさについて
昔から僕はかっこつけるのは好きではありませんでした。例えば右手を広げるという目的のために、わざわざ一旦左に持って行ってから広げたり、そういう目的に必要ない行動を入れてまでかっこをよく見せようとすることに対して、嫌悪感すら感じていました。
今回はかっこよさについて考えてみようと思います。
何が嫌なのか?
えんじろうは何か引っかかるものを感じた時、それが一体何によって感じているものなのかということを追求したくなります。
例えば「こういう歌い方は絶対やりたくない」という歌い方をしている人がいたとします。それをただ嫌いだからで済ませてしまうと、原因はずっとわからないまま。似たような原因の他の出来事にも反応しては、嫌いな数ばかりが増えてしまうことになります。下手したら自分が気づかずにそれをしてしまう可能性だってあります。
そこで原因を追求して一体そのどこの部分が嫌いなのかを探るんです。そうすれば嫌いに思う根っこを知ることができ、嫌いという結果にいちいち対処しなくてすみます。何よりも自らがそういった行為をしていたなんていうオチもなくなります。
さて、えんじろうがかっこをつけることが嫌いな理由は、見ていて痛々しく感じるから。本来関係ない動作を加えてまで見てくれを良くすることに、目的がすり替わっているのを感じてしまうからです。あるいは技術だったり精神的ゆとりのひけらかしのように見えます。そこに目的を感じてしまうことに「違うだろ?」と言いたくなってしまうのでしょう。
これまでの動画
えんじろうがこれまで作り続けてきた動画の数々は、正直かっこつける動画ばかりだったと思います。先ほどのタイプとはちょっと違うのですが、なるべく視聴者の時間を無駄遣いさせないようにと、一応気遣いのつもりで必死でカット編集をしていました。おしゃべりのミスも何度も録画をやり直したし、ビシッと決まったテイクだけを出すように心がけていたんです。
それはライブ配信にも及んでいました。隙のないスケジュール管理でしっかり原稿も作り、喋り出しの文章まで用意していたんです。それでも思ったほどはうまくいかず、時間配分を微妙にミスったりということもよくありました。
目的のすり替わり
得られたのはただ「すごいね」や「がんばってるね」しか言えない状況。それを言ってもらうことに価値を感じてしまい、言ってほしいと思ってしまう自分の状況。挙句の果てには、自分が嫌いなかっこつけの一端でしかなかったことへの気づき。
結局ありのままどころか必死に背伸びして頑張っている姿を作った結果、そのために頑張った努力を見てほしいという勘違いな目的になってしまったのです。
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男の背中のかっこよさ
そこに飛び込んできた動画がありました。ドラゴンクエスト3などのプログラマーを手掛けておられた方のYouTubeチャンネルに出会ったのです。その方は多少の企画は用意しつつ、その方向に向かいつつも、非常にマイペースに、しかも独り言もたっぷり言いながらのんびりと時間を進めているんですね。
それでいて当時ゲーム本編でお世話になったできごとの仕組みや構造の部分を朗らかにちょうどよいペースに教えてくれるんです。教えてくれるというよりも一緒に見ているような感じですね。
なんかただただ魅力的に感じました。
飾らないその人の姿勢は「男の背中の格好良さ」と言いたくなるものを感じ、凛々しく輝いて見えるんです。すぐさまチャンネル登録しちゃいましたよ。
そしてさらに印象的だったのが、プログラムの書き換え作業を進めつつ、すごく満たされた朗らかな喋りをされていることです。悟りを開かれているようにも見えました。何という安定感でしょう。
こういう心持ちでオカリナを吹くと、本当に素晴らしい演奏になりますよ。
かっこいい!
かっこつけとかっこいいの違いがはっきり分かった瞬間でした。そしてえんじろうもかっこいい姿なら受け入れられるどころか、憧れさえ感じてしまうんだということを思い知ったのです。
それからこれ、よく考えるとオカリナ奏者宗次郎氏を見ている時にも感じていたことだったのです。
憧れ
子供はみんなそうしているように、えんじろうもまたやりたいことと憧れに生き続けているつもりです。やりたいことが最も中心にある目的であるならば、かっこいいものに憧れるというのは目的のためにどんな経路を通って行くかという手段選びのようなところかもしれませんね。
あのプログラマーさんのように終始朗らかな笑顔で、宗次郎氏のように終始訥訥と素朴に。えんじろうにはそんな姿たちが「憧れ」として心に焼き付いたのです。
表面的に人の真似をすることは、かっこつけてることを見せるためにかっこつけているようなものであるのに対し、その人の生きた結果自然に生じているかがやきに憧れ続ければ、その理由ごと自分の中に伝わってくるかもしれない。
かっこよいものを見るというのは、素晴らしい人の根元の部分を感じるために行うことなのかなと言うことを感じました。そしてそんな根っこの部分を感じ続けることで、自分の根っこにも同じ要素を取り入れることができるのかもしれませんね。
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なまえ
えんじろうの名前は本名から来ています。実は「ろう」の文字には朗らかという文字を親はあてがってくれたのです。
特に中学生時代を中心に、名前の文字にかかっている重さに耐えきれず「自分にはふさわしくない名前だ」と感じていた時期が長くありました。それが今、自分も朗らかという文字を願うようになっていることに気がつきます。
そしてようやく親に、この名前をつけてくれたことに感謝できるようになっています。面白いものですね。多分この話題は「お誕生日演奏会」の時にも話すと思います。
伴奏制作動画
そうそう。えんじろうは今、YouTubeに伴奏音源を制作する動画を連続で投稿しています。これまでと方針を180度転換し、多少のカット編集のみでほぼ垂れ流し状態の動画です。
まだまだあの人のようにはできませんが、それでも自分らしい朗らかな動画をお届けできるようにしたつもりです。現在その3まで投稿したかな。
まとめ
かっこよさに憧れることは、実は子供の頃から普通にやることで全く不自然ではなかった。そして表面に見えてくる結果としてのかっこよさから、それが生じる理由の部分までしっかり感じようとすることはとても大切なことなのかもしれません。
打って変わってかっこつけに憧れることは全くもって意味のない表面のものまねでしかないと改めて思います。
かっこよく見せるために表に次々とくっつけてしまうまねっこの飾りのせいで、自分本来の姿すら覆い隠して見えなくしてしまう。そんなもののように感じました。
あの人はかっこいい。一体僕はどんなところに引かれたんだろう?そこを考えているだけで充分であるということです。下手に真似しようとしない方が、思考から近づいて行けるというもの。
今回はそんなことを学びましたというお話でした。