正しい道
オカリナレッスンの講師をしていると、正しい教え方があるわけではないということだけが、色濃く判ってくる。
今回はそんなお話です。
個人レッスンの雰囲気
えんじろうのオカリナレッスンを受けたことのない人からしたら、一番気になるのは「この人はどんな雰囲気でレッスンをしてくれるんだろうか?」ではないでしょうか?
皆さんはどうか判りませんが、えんじろうがもしレッスンを受けるのならパ、何よりも「この人おっかないレッスンはしないだろうか?」という心配が一番に立ちます。そう、僕はとびきり臆病で自分を守るので精一杯な人間です。
でもそれはお金を払うという行為によってある程度の保証が得られます。お金を払うことで「ある程度相手に委ねる」姿勢を取ることができるのです。もっときれいに言えば「ある程度相手を信じる」ことができるということですかね。
それで、えんじろうのレッスンはどんな雰囲気かといえば、お答えできないというのが正直なところです。
頭ごなしに怒らない
確実に言えることは「頭ごなしに怒る」ということはしたことありません。それは学校で頭ごなしに怒られた経験が豊富なえんじろうにとって、それが本人には意味がないと思っているからです。
理由もわからずに怒られる場合、そこから学ぶのは「怒られないための方法」となるのです。学ぶ目的自体が間違っていますよね。大人が受けるレッスンがそんな目的で行われるようでは、もはや恥ずかしい領域だと思います。
生徒がやるべきこと
生徒さんには怒られない方法ではない、どうしてわざわざお金払ってまでレッスンを受けるのかという根本的な動機を、いつでも頭の片隅に置いておくことが重要だと思います。
そしてその動機と目標をしっかり講師に伝えることで、初めて講師はそのためには何が必要かという思考に入ることができるわけですね。つまり「常に目的を意識する」というのは生徒がやっておくべきことです。
講師がやるべきこと
講師はその目的を受け取り、その達成のために必要な細かな到達点を「目標」として決めて、それを良い順序で提示してゆくというのが理想だと思っています。
目的に向かって多数の目標という名の通過点を用意し、それを順序よく並べるのが講師の仕事。連なった目標を順番にクリアして目的を果たすための道筋に導くこと、これぞまさに「指導」という言葉通りのイメージだと思います。
理想と現実
ここまでは理想のお話。しかし現実は違っている。
生徒さんによって目的の伝え方がバッラバラなのですよね。更に目的としての的の範囲も相当バッラバラ。例えば判りやすくこの曲を楽譜通りに吹くという目的を言う人もいれば、キレイに吹くなんて目的を言う人もいるのですよね。
キレイにとかしっかりとか、思いを込めてとか言う場合、それは聞き手によって千差万別。だからこの目標の場合、それを判断するのは誰なのかということをはっきりさせない限り判断ができないことになります。
1.判別者が生徒の場合
判断するのが生徒本人ならば、本人がキレイと感じる基準、しっかり吹けたと感じる基準、思いを込めて吹けたと思う基準を決めない限り答え合わせすらできないことになります。
最初にすることは、その生徒にとっての基準はどこかをはっきりさせることとなるわけですね。判りますか?特に「思いを込められた」と本人が感じる基準なんて、定めようがないような、非常に難しいですよね。でもしっかりとかキレイの基準ならば、比較的定めやすいように思います。
多分これが一番現実的な目標の設定方法だと思っています。
2.判別者が第3者の場合
では判断基準が第3者がどう思うかだったら、これは基準が固定できません。ある特定の人に判断してほしいのであれば、毎回その人を連れてくれば基準は一定ですが、その人の価値観は時間の流れとともに変化してゆきます。2度目に聴いて貰う前に別の場所ですごい演奏を耳にした後だったら、無意識にハードルが上がっていたなんてこともあります。
というかそもそも、判断してほしい度にその都度第3者を呼びつけなければならない時点で現実的じゃないですよね。
3.講師に判断して貰う場合
最後にそれを判断するのが講師だとしたら、一見良いように思えるでしょうが、意外とそうでもありません。
講師は良い演奏の手段を提供する仕事である以上、とてもたくさんの演奏表現の手段を知っています。生徒の可能性を信じているので、もっともっととなって、手段をすべて伝えるまでほんとうの意味での「しっかりできた」は訪れないのです。
それはもちろん講師も判っているので、講師の判断で「この生徒はここまでだろう」などと同意無しで上限を定め、それを基準としてレッスンすることになるでしょう。
生徒によってはこの手段を用いることもありますが、理想的ではないと思っています。基準を定めることに本人が関わらないから。僕ならこれではやる気が出ません。他人の決めた基準に乗っ取る場合、いつ頃達しそうなのか予測も付けられませんから心が不安定だし、例え「あなたは基準に達した」と言われても、自分で判断できないからその実感が得られないのです。
そして講師側としてはこれが一番つらいのですが、勝手に定めた基準により、その生徒にさらなる高みを伝えることを放棄した「怠慢」をしているように感じてしまいへこむのです。
いつでも目的を
あなたにとっての「キレイに吹く」は、どういう事を言うのかをはっきりさせないとお金の無駄遣いになります。でもそれが意外と伝わりにくくて。ちゃんと吹くの「ちゃんと」とは?しっかり吹くの「しっかり」とは?心が伝わるように演奏するって実際にどんな時に「奏者の心が伝わった」と感じたのですか?
これらの判断基準と判別者が誰なのかということを、曖昧なまま続けている人も多いのではないでしょうか?
この辺りを講師も生徒も追求しないまま進めてしまうと、結構ダラダラなレッスンになりやすいと言うことを感じています。
感じているなんて書くということは、実際にそういう場面があると言っているようなものですよね。もし「それってうちのことかも」と感じる方は、次のレッスンで目的についてご相談くださいね。
疑問を感じときこそ、それはチャンスですから。そこから始めてゆきましょう!
目的への道筋
目的が定められれば、後は1つずつの目標に向かってまっしぐら!と言いたいところですが、その道筋も1つじゃないんですよね。
目標の方向に向かっている道筋は無数にあり、遠回りをしているように感じる道もあれば、一直線に見えて到達点が近いけれどそこじゃないという道もある。
そんな無数の道を品定めして、どれが「この生徒にとって」最適なのかを考えることは、個人レッスンの講師の仕事だと感じています。うまくいくとかなり「してやったぞ」と思えて嬉しいです。
その思いが足手まとい
よくあることなのですが、えんじろうは「自分ならこう考える」というのがはっきりあります。そのせいで生徒さんもきっとこう望むに違いないと勘違いをすることが多々あるんですよね。
例えばえんじろうは、これはこういうやり方をするのが「当たり前」だからとか「普通こう」しているよとか、そういう教わり方が大嫌いです。当たり前も普通も多数決の結果が決め手のようになっているだけで、理由が無視されているから。そんなものよりも「こうするとここが楽でしょ?」という理由がほしいのです。
ところがこの感覚は、誰しもがそうというわけじゃないというのですよね。いやいや誰だって理由もなく頭ごなしに言われて従おうとは思わないでしょ?って言いたくなってしまうのですが、このやり方は「こうと決まっている」と言われると「ふーんそうなんですね」と理由がわからないままでも素直に受け入れてしまう人が結構多いのです。
そう考えている人に、後からあれこれ理由を示して感動を伝えようとしても無意味。ほぼ右から左なのです。これはもう、そういう感覚の人もいると受け入れて、その人にとって大切な結論の決め事だけで進めてゆくか、理由を考える感覚が身につくまでしつこく伝え続けるかしかないわけです。
とはいえ、ほぼ気のない人に理由を知る楽しさを伝えることは難しすぎるというのが僕の答えです。誰だって興味ない話題に向き合う気は起こりませんからね。興味もないのにどうしてお金を払ってレッスンをするの?これに悩み始めるとこんな風に究極の疑問にたどり着いてしまうんですよね。危険だ!
そりゃ僕はお金払い続けてもらえる方が生活できるからありがたいのですが、恵んでほしいわけじゃない。ちゃんと払った分の得られるものは得てほしいと思うから。嫌なら見にいかなくて良いライブと違い、積み重ねが意味を持つレッスンだから、意味に疑問を持ち始めると余計にあれこれ悩んでしまうんです。
自分の伝えたい想いと、相手が求めているものとの折り合いをつけなければならない。
そしてその生徒さんにとって好都合な目標の道筋を探し出し、指導しなければならないということになるわけです。未だにそれがうまくできていると自信は持てていませんし、すれ違うこともあります。
自分の発見も
もちろんもやもやすることばかりではありません。需要と供給の折り合いがつかず迷うたびに、自分の対応の幅も広がるに違いないと信じて続けています。
実際にそれで「これっ、あの人とのレッスンのときにも同じようなことあったぞ」と思うこともあり、そういうときには前より少しだけ気の利いた言い回しができることもあります。
生涯学習
よく聞く言葉ですが、実際どういった意味なのでしょうか?
1.学習が生涯続くことを言ったり、2.生涯に渡り自由に学びの機会があるべきだという理念を言ったりしているようですが、脳というのが学習器官として機能している以上、1は生まれたときから始まっており生きることと同義のようにも思いました。
講師の悩みを吐露したような内容になってしまった今回の記事ですが、こうした悩みを抱き、それを解決しようとがんばることも講師にとっての「生涯学習」の一貫ということになるのでしょうね。
永久に終わりのない、まさに生涯続く学習。あれっそういえば講師としての目的ってなんだろうか?生徒の目的より以前に、まずは自分の中にそれが定まっているのかどうかを確かめる必要があるのかも!