
雫の轍 2巻
繁華街の上を飛び、賑やかな音や声
煌びやかな色とりどりの光
それを横目に、史緒里ちゃんがあの獣のような妖に襲われていた森
我々が、鵯森 -ひよどりもり- と呼んでいる鬱蒼とした木々の中に俺は降り立った
竜巻のような上昇気流を体に纏わせて空を飛んでいたため
木々は大きく揺れ、バキバキという枝が折れる音が響いた
○○:あちゃ〜、普通に空洞門使えばよかったか
そんな自虐に、森は笑う
○○:悪いね、数本痛めつけちゃったよ
後でお詫びはする
自然を蔑ろにすれば、陰陽師としての面子が悪くなる
それに、陰陽師の用いる五行というのは自然に由来するものだ
大元を無下にはできない
○○:さってと…
こいつのことなんだよな
森の中に、一際存在感と場違いな感覚を起こさせる
未だ俺に胴を貫かれたままの、大きな獣を見た
その大きさから見て、熊のように見えるが
四肢の発達具合や、顔つき、歯なんかを見ると狼や狗に近い
○○:特別に巨大化した種か…
突然変異か…
四肢だけじゃなく、貫いた胴の箇所や内臓
それから頭…
順次、観察する
○○:ふぅん…
顔やなんかにはなんも残ってないか
こういう獣が、自らの意思で人を襲うことはない
浮世は、自然に過度な干渉をせずに人が営みを持っている
それなのに、獣が人を襲うために出てくるはずがない…
○○:間違いなく、俺らを狙った何かに操られていたはずだ
だから、体の細部まで観察する
脳をよくよく見てみると…
○○:おっと…こりゃぁ
憑依系の何かが取り憑いていた痕跡
正確に表すなら、取り憑いた何者かの残滓が残っていた
○○:でも、あれからあまり時間は経っていないはずだが…
中々の手練れか?
暗闇の中、サーッと木々が泣く
俺も何者かの気配を捉えた
“おっと、来てたんだ 何さそんな険しい顔して”
思考を鋭くし、考察を今からしようとしていた時
後ろから、ついさっきここで腰を抜かしていた二人組の主人が歩いてきていた
○○:何だよ、今集中しようとしてたのによ
“あぁ、ごめんごめん”
謝っているんだろうが、語義や言葉の調子から聞くと
正直心がこもっていないような感覚がある
○○:全く…
それにしても、お前自ら赴くなんんて珍しいな
だいぶ長い付き合いだから知っている
こいつは、まともに現場に検証しにくるほど真面目なやつじゃないんだが…
“バカね、特殊なやつが出たっていうなら流石の私でも現場に来るよ”
○○:それは戦ってみたいからだろ…
冷めた顔して、そういうところは熱いんだよな
“うわ、嫌な言い方… 折角手伝ってあげようと思ったのに…”
○○:別に手伝いなんかいらないよ
残滓の出どころを探るだけなんだから
少しぶっきらぼうに言ってみたが、こいつは顔色を変えず
“違うよ 現世から来た子のこと…探るつもりだったんでしょ?”
サーッと風が体に吹き付けた
“何でわかるのかって?”
何も言わない俺に、こいつはさらに言葉を重ねる
○○:赤子の頃からの付き合いだからな
“そういうのを竹馬の友っていうんじゃないの?”
不適に微笑むこいつの、こういうところがどうも好きになれない…
“ささ、女の子見つけた場所を教えなさいな”
すでに乗り気なこいつは、俺の腕をとって大きく振る
○○:女の子だってわかった理由は聞きたいもんだな
“いい匂いがした… 何かの花の香り”
○○:怖いわ…ほんと
“それは私にとって褒め言葉だね”
史緒里ちゃんを見つけた場所に案内すると
静かに
呆然と
霊気を探り始めた
○○:何故、明治以降閉ざされたはずの門が開いたかだな…
隣に立って、呟いたその言葉に
“いや、違うでしょ…”
目を閉じた状態で反論した
“これが初めてじゃない、10年前のことあんたが忘れるはずがないでしょ”
久しぶりに強く、鋭く言葉を言われ何も口から出なくなった
“…その女の子も扱いには気をつけなよ 重要な鍵になるかもしれない”
○○:あぁ…わかってるさ
静かに答えた
馬弓:ふむ…何かの社に入ったら
眩暈がして、気がついたらこの世界に…
馬弓…さんは私の話を親身になって聞いてくれました
何を知りたいですか…
と言われた時は少し怖かったですけど、話してみるととても優しい方だということがわかったのです
史緒:あの、一定期間こちらでお世話になると思いますので
こちらの世界についてお教えいただけますか?
馬弓:えぇ、勿論です
それではまず、浮世と現世の説明からしましょう
馬弓さんは、私に話し始めました
馬弓:江戸の世までは、浮世と現世は繋がっていたのです
怪談、なんかがいい例ですね
お岩さんや、播州皿屋敷のお菊さんなんかのことを言っているのでしょう
私にもそれは理解できる範囲のことでした
馬弓:ただ、明治維新とともに西洋列強に追いつこうとする新政府と
古都を古くから守ってきた陰陽師たちは対立したんですよ
史緒:対立と言われますと?
馬弓:ガス灯や電気なんかで人々の営みに変化が訪れると、陰陽師の張っている鎮護の結界が崩壊するから…というものです
馬弓さんはそう仰いました
しかし、私には引っかかるところがあったのです
史緒:待ってください、電気やガス灯で結界が破られるなら何故浮世は電気などを使っているのですか
すると、馬弓さんは少し口角を上げて
馬弓:いい質問ですね
それは…話が進んでいけばわかりますよ
張り詰めていた空気が、少し解き放たれた気分です
言うなれば、お笑いのズッコケと同じものでしょうか
馬弓:ともかく、陰陽師たちが新政府に猛反対した結果
天皇陛下を伴って江戸…即ち東京に逃げていったのです
史緒:よく、明治天皇が偽物だったからではないかなんて言われてます
私たちの世界では
馬弓:…あながち、間違ってもいませんよ
現世にも鋭い方はおられるようだ
馬弓さんは興味津々な顔を私にしながら感嘆の声を上げました
馬弓:陛下は身代わりを使われたのです
京都の結界から出るのが恐ろしくて
史緒:影武者…ということですか
馬弓:武者かどうかは置いておいて、わかりやすく言うならばそう言うことです
馬弓さんは丁寧に説明してくれているので、とても有り難かったのですが
それと同時に、とても当時のことに詳しいなと思いました
見た目は、私と同じくらいの歳に見えますし
背丈も目測、160cmほど
式神とはいえ、今から150年ほど前のことを間近で見ていたかのように言われるのです
私はそれが気になって、途中から話が入って来なくなりました
わずかに聞いていた情報の断片から、推察してみると
陛下は後に東京に降ることになり、政府は天皇陛下の安全と京都や奈良などの古都を厳重に護ることを条件に
陰陽師たちに、今この世にいる物の怪や妖、幽霊などの類の全てを祓うことを要求してきました
勿論、そんなことができるはずがなく…
苦肉の策として、陰陽師の妻子などを有事の際に避難させる世界
ー浮世に全てのそういうものを封じ込め、己たちも浮世に住み
元の世界との関わりを絶った
と言うようなことを、馬弓さんは仰っていました
馬弓:これが、浮世と現世の歴史です
少しだけ力が抜けたような顔をした馬弓さんに、私は質問を投げた
史緒:先ほどから気になっていたのですが、馬弓さんはその場にいらっしゃたんですか?
ものすごく鮮明に言ってらっしゃいましたけど…
馬弓さんは、驚いたような顔をしてこう私に仰いました
馬弓:私はもうかれこれ200年は陰陽師の手伝いをしていますので…
200年…
人は見かけに寄らないようです、本当に…
そんなところに
○○:ただいま〜
○○さんが帰ってきたのです
馬弓:おかえりなさいませ…
どうでしたか、森の妖は
馬弓さんは、○○さんの元に向かいながら尋ねました
○○:少しだけ情報は得られた…
とりあえず、鶴城の方に詳しく調べてもらうように頼んだ
馬弓:…そうですか
となると、明日くらいには緊急会議が開かれそうですね…
○○:だろうな
いやはや、また少し忙しくなりそうだ
大きく伸びをされた○○さんは、私の方を見ると
○○:疲れただろうから、お風呂に入ってしまいな?
その着物をまた着ればいいのだから
と微笑んで言われました
馬弓:そうですね、そろそろ沸くと思いますし
○○:だろう?
おーい、誰か
客人の風呂を手伝ってくれ
○○さんが人を呼びました
とりあえず、私もだいぶ疲れが溜まっていましたのでお風呂に入ることにしました
でも、驚きました
意外と浴槽があるんですもの
ユニットバスとはいきませんが、正方形の木で造られた浴槽が…
史緒:ふぅ…
やっぱり疲れが取れるなぁ、お風呂に入ると
一人のときは敬語が外れます
…何故でしょう
やはり知らない世界だからでしょうか
人と…あと式神の方々と話すときは自然と敬語になってしまいます
女中:湯加減や、髪のことなど
御用ありましたらお呼びください
史緒:ありがとうございます
女中の方々に、私の黒い髪を褒められたので
結構気分がいいです
たしか、平安時代からずっと
黒髪の艶のある長い髪は、美人の象徴とされてきたと
歴史の資料集に書いてあった気がしました
それに、女中の方々も私に対してとても丁寧に接してくださるので
他の世界から来たとは思われていないのかもしれませんね
足を伸ばしてお風呂を堪能したあと
軽く体を洗って
私達の言う、脱衣所のような所に湯殿から出た時です
馬弓:…して、現世の門については
なにか進展がありましたか?
馬弓さんの、少し潜めた声が聞こえてきたのです
○○:いや、ほとんど何も
史緒里ちゃんには悪いが、まだ理由も門が開いた条件もわからん
○○さんの口から、ちゃん付けで呼ばれると
少しだけ照れます…
ですが、それよりも
元の世界へ帰る術がないことに、改めて胸が締め付けられる想いです
馬弓:左様ですか…
そうなると…“菖蒲”様のことも
○○:あぁ…そうだな
あまり最近は考えてこなかったが、“菖蒲”のことも気にする必要があるかもしれない…
お二人の会話から何やら人の名前が出てきたのです
…もしや、私よりも前にこの世界に来た人がいたのでは?
と、私は勝手に推察してしまいました
女中:史緒里様〜!
お上がりですか?
すると、扉の向こうから女中の方の声が聞こえました
お二人が声を潜めて話されていたので、大きな声を聞くと驚いてしまいます
史緒:は、はい!
その後、○○さんと一緒に夕飯を頂いて
少しだけ、陰陽師の使う術…
ー陰陽師の方たちは、『行』と呼ぶそうですが
そのことについて教えていただきました
○○:さ、部屋も片付いたことだし
今日はゆっくり休んでくれ
○○さんに案内された部屋は、とても綺麗で
元の私の部屋よりも広い和室でした
史緒:ここを、私が使っていいのですか?
○○:勿論だとも
あ…何か生活面で困ったら、近くに女中たちの部屋があるから聞いてくれ
○○さんはそう言って、自室に帰っていかれました
色々とあった一日でしたが、それなりに退屈しそうになくてワクワクしています
ただ、布団の柔らかさにすっと…
すぐに寝入ってしまったことが、一日目の反省ですね…