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禅問答入門 3 【隻手の音声】

1 隻手の音聲

「隻手の音聲」は、白隠禅師が63歳ごろに作ったとされる公案で、臨済宗の僧堂では入門者に課される公案です。私も、僧堂で初めて与えらた公案が、白隠禅師の「隻手の音聲」でした。

白隠は、この問答のヒントとなる禅画「聞か猿」を残しています。この禅画には以下のような賛がついています。

聞かざる-294x1024

             (広島県神勝寺所蔵)

きかざるも隻手はあげよ郭公

郭公とは、鳥のホトトギスのこと、隻手は片手と言う意味です。
「きかざる」をひらがなで書いているのは、「聞かざる」と「聞か猿」を掛けているからです。この辺りは白隠のユーモアが見え隠れするところです。

さて、この賛の意味を考えてみましょう。
飛んでいるホトトギスが、両手で耳を澄まして聞こうとしている猿に、白隠の「隻手声あり、その声を聞け」という公案を「作麼生」(さあ、答えて!)と、囀んでいるでいる光景が見てとれます。

ホトトギス、つまり白隠禅師は、「両手を叩くとパンッとなる音は聞こえるが、片手で叩くと何が聞こえるか?これだけはしっかりと聞きとげよ!と、私たちにメッセージを送っているのです。

2 白隠禅の真髄

白隠禅師は「隻手の音聲」の公案で、一体どんな答えを求めているのでしょうか。禅は、分別をとにかく嫌います。この分別を拭い去ることが、悟りへの近道です。ですから、禅では「無」がすべてです。しかし無だと世間と断絶してしまいますから、有る無いの無ではありません。鈴木大拙の言葉を借りれば、「無分別の分別」です。

禅の教えでは、分別心を「こだわり」や「選り好み」と考えます。そして分別心さえなければ、苦しみは起こらないと説きます。

私たちは日々の生活で何かを決断する時、他と比較して相対的な価値判断で「良い」「悪い」、「好き」「嫌い」を分けて、自分が好む選択肢の方を選びます。自分の望みが現実となることが「良い」、思い通りにならないことは「悪い」、このように自己中心的に考えてしまうのは人間の性〈さが〉かもしれません。

しかし分別する心が、執着や苦しみの原因です。「好き」「嫌い」と分けなければ、たとえ自分の嫌なことであっても感情的にならずに、一つの事実として受け入れることができます。

なので、この白隠禅師の「隻手の音聲」という公案の答えは、分別を超越した「無」が正解です。
それをどのように老師(師匠)の前で表現するかは、また別の問題。
無の境地になったつもりで「無!」と叫び続けても、合格はもらえません。

3 分別しないこともまた分別

白隠禅師は「聞か猿」の禅画を通して、きっと分別すると苦しいので、それをまず止めることを、私たちに教えてくれたのだと思います。

誰もが「幸せになりたい」「不幸になりたくない」と願って生きています。しかし、「幸せ」を「不幸せ」と分けて、「幸せ」だけを手に入れることはできません。

なぜ「幸せ」を感じるのかというと、それは幸せでない時があるからです。人生は必ず「幸せ」と「不幸」の二つでワンセットです。「不幸」があるから「幸せ」があるのです。つまり、「不幸」は「幸せ」になるための必要条件なのです。

「良い」「悪い」と分けて一方だけに偏って物事を判断すると、物事の全体像がわからなくなってしまいます。だからと言って中立的な立場にこだわり、分別しないことに執着すると、それはそれで揀擇していることと同じです。分別しないためには揀擇しないことすらも否定するのが禅の教えです。難しいですね。

隻手の音聲について、白隠禅師の言葉をもっと学びたい方は、是非こちらを読んでみてください。


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