猫は生きているのか、死んでいるのか。

 二月も半ばに差し掛かり、寒いのもあと少し。この駄文に目を通す人の中にはきっと新生活の人も多いだろう。無理せずに頑張って欲しい。そして挫けそうになったときには誰かに頼ることを忘れないでいて欲しい。
 さて、皆さんはシュレディンガーの猫という思考実験を知っているだろうか。青春豚野郎はバニーガールの夢を見ないにも登場した比較的有名な思考実験だ。
 この思考実験は量子物理学の矛盾点を指摘するために作られたもので、二重スリット実験と深く関係がある。僕はこの実験がとても好きなのだが、複雑になるため割愛し、シュレディンガーの猫の哲学的な側面からお話を進めようと思う。

 この実験は、密閉できる箱に猫を入れ、同時に1時間に1度放射線を出す装置とその放射線を検知して青酸ガスを放出する装置を入れる。
 さて30分後に箱の中の猫は生きているか死んでいるかというものだ。
 まず先に断っておきたいのだが、思考実験に明確な正解はない。猫がかわいそうに思えてならないからこそ、この実験は行われていないし、実際の実験では100%の確率で猫は生きているというのが事実だろう。なのでここでは結果が確定されていない状態のお話だとわかって置いて欲しい。

 さてここからはフィクションの世界だ。


 もし自分が消えたいという望みが叶ったとして、自分から他者が観測できたらそれは苦痛だろうか。
 私は空想に老ける。考えることはただであり、全ての人間に許された数少ない快楽の一つである。誰にも遠慮なく好きな世界を自分の中に描ける。ならばこの世界に、この肉体にそんなに意味を見出せない。思考という約束された自由の中で私は翼を得ていた。こんなに醜くて辛い、制約された世の中を必死に、懸命に生き抜くほどの価値はあるのかと再び自分に問いかける。
 ちょうどその時、私は初めて悪魔に出会った。
 その悪魔は見た目が怖いわけでもなくただの人間の姿で立っていた。まるで好青年のようにこちらを見下ろし、柔らかな笑みにしずんでいた彼の顔はとても見目麗しい。

「良からぬことを考えているようですね」
 その悪魔は静かに口を開く。駅の雑踏に掻き消されるほど小さい声が私の中には強く響いた。

私は今から一つの苦痛に終わりを告げようとしていた。

「わかるんですね」

 私は彼よりも小さな声で、小さな言葉で雑踏に消されるようにして吐いた。彼はにこりと笑って小さく頷く。その妖艶な姿にしばらく見惚れそうだ。
「よければお仕事の前に食事でもいかがですか?」
悪魔は古風なナンパを仕掛けた。私はその態度に驚きつつ、死ぬことを仕事という彼に少しの興味を描いてしまった。
 なくなく付いて行くことで閣議決定した私の脳内は、私の体を自然と彼の隣を歩かせた。特に語ることもなければ談笑に務める息苦しさもここでは皆無だった。
 どうせ死にゆく人間。今ならなんだってできる気持ちでいる。もしこの悪魔と一夜を共にしても私は何も思わないだろう。むしろ今なら快楽により深く浸れるかもしれない。
 しばらく歩いて着いたのはチープなイタリア料理店。換気扇の前を通ったこともあり、茹で上がるパスタの匂いが鼻腔を通り過ぎて空腹を脳に認知させた。

「ここおいしいんですよ」

 そういう悪魔の麗しい笑顔はどんな人間よりも欲下びていた。

「わたしもお腹が減りました」
「換気扇をお店の通り道に置くなんて大層不親切か親切かわからないお店ですよね」
「そうですね」
 悪魔は「そこが悪魔好みです」と微笑を顔面に掲げた。口角が吊り上がると共に私の鼓動も吊り上がる。跳ね上がる。
 心臓がやけにうるさい。不整脈でも起こしたかのよう鼓動が、律動が、早くなる。彼に心配されるがここで死ぬのはなんか癪だと私は踏ん張りパスタを頼む。そして水を飲み落ち着いたところで悪魔が喋り出す。

「ぼく、あなたに死んで欲しくないんですよね」
「なんでまた?」
「いや、死なれると仕事が増えて面倒くさいんです。特に若い人だと。あなたは先ほど、僕が声をかける前に死んでいるはずの運命なんですけよ。しかし僕が偽装してるのでなんか中途半端なバグみたいな感じになっていて、今処理ができていないしわ寄せが、あなたの心拍数に影響を及ぼしているんです」

「この世って随分と無理のある設定なんですね」
「日本社会を作った人の問題ではあります」
「なるほど。中間管理職みたいなものなんですね」
「そうなんです。大変です」

そこでパスタが来た。おいしそうとありきたりな感嘆符を呟き早々に食べ始めると、悪魔は急に私がパスタを咀嚼する光景を見つめてきた。

「なにか?」
「いえ、これまでの人生に終わりを告げるような人には見えなかったので」
 私は思わず吹き出した。
「その仕事やめたほうがいいですよ」
 笑いながら私がそう言うと悪魔は「向いてないことはわかっていたんですけどね。前時代的な世襲制度を変えられるほどの力が僕が悪魔になった時にはなかったんです」と自重気味に笑って見せた。そして私はこう続ける。

「悪魔さん。シュレディンガーの猫って知ってます?」

悪魔は「さぁ?」と首を傾げる。この人はジャニーズか俳優のオーディションを受けたほうがのびのび仕事できそうな雰囲気である。

「思考実験の一種なんですけど、放射線を出す装置とその放射線を検知して毒ガスを発生させる装置を箱の中に入れ、ランダムな時間に等間隔1時間で作動するようにセットします。同じ箱の中に猫を入れ、我々には猫の生死がわからないようにします」
「さて30分後 猫は死んでいるでしょうか、生きているでしょうか」

 悪魔は先ほど話しかけてきた時の何を胎で考えているか分からない表情とは違い、誰が見てもわかるような如何にも私悩んでいます。というポーズをとり思案していた。
 てっきり悪魔らしく「猫の蝋燭を見れば分かります」とか、「私は悪魔なので分かります」といったありふれた回答じゃなさそうなのでほっとていた。
 そしてしばらく悩んだのち、正確に言うと私がパスタの半分ほどを食べ終わったときに彼は結論を出した。

「僕は悪魔です。生死の状態を見ることは確かに容易で、仕事でもあります。しかしこれは面白い。この状況では誰も猫の生死を決めていない。その場合猫は生きていると言えましょう」
「どういうこと?」
「悪魔による生死の基準て実は曖昧なんです。人が死体を見たり、誰か別の生命体に初めて死んでいるんだと認識されるまでその死体は生きていると言えるということです。この思考実験の場合もそれに倣えで、この猫の死体は誰も見ていませんし、ましてやこの猫は30分前に、確かに我々の手の中で脈打っていたわけです。生きた状態しか知らないわけですから、当然その猫は生きているとなります。我々の中で。死体を確認して初めて生きていると言う最大の確認が否定されてifではなくrealとして生死が第三者によって認識されます。それまでの猫の生死は観測者に委ねられると言うわけです」


 私はなるほどと相槌を打つことしかできなかった。私はこの思考実験に明確な答えを持っていない。しかし悪魔はこれに明確に答えてきた。たしかに猫は、我々の手の中で確実に脈打っていたと。私もそんな存在なのかもしれない。

 自分が生きている証明がしたくて、自分はここにいるという証明をするために他者に依存して、第三者に生死を委ねる。自分という概念は不思議なものだなと感じてしまう。何一つ自分では決められず、自分は他者に求めてしまう。自分の命だけに儚いとは微塵も感じ得なかった。

「一つ、いいですか?」

 悪魔は神妙に口を開く。自然と体の全神経が彼に傾倒していくのを感じる。ホームにいた時と同じ。彼の声帯に震わされた空気のみが私の鼓膜に振動を与え、それが脳液の充満する私の海へと止まることなく反復し増幅され、まるで脳内に直接語りかけているかのように説得力を持つ。悪魔の囁き。

「あなたの証明は僕がしています。しかし僕の証明は?」

 しばしの沈黙。というよりも静寂だった。店の扉が音もなく開く。店内に客が来たことを知らせるチャイムが無音で揺れる。店に入って来たのは女三人。前二人は雰囲気のいい小洒落た店に心を弾ませているようだった。奥の彼女は嫌々連れてこられたのか、それとも店の雰囲気に尻込みしているのか、笑顔というよりも愛想笑いでさえ引きつっていた。彼女らが店に入っても、店員が駆け寄らず、先頭の一人が少し怪訝な顔をして徐に手を上げる。口が開く。きっと今彼女は店員を呼んでいる。しかし彼女が私の空気を燻らせることは一度たりともなかった。


「そう。あなたがしているんですよ」


 悪魔がそう言うと、私はどことなく幸せな気分になった。生まれて初めて人のために何かをした気分になっていた。相手が本当は悪魔だろうと関係ない。第三者から見ればただのカップルだろう。その第三者に確定されていると言うことは彼もまた人間なんだ。そう私は確定する。

 他者によって今この場に存在することを認められていると認識した。私の思考の海はそこで停止し、考えを放棄した。
 直感で動こう。この悪魔は私に問いかけている。他者を必要としない、自分が思考の海と目していた場所への道を。

 説いているんだ。だとしたら答えるのは私だ。だから私は彼の問いに対して答える。
 まるで旅をしている旅客にあなたのお住まいはどちら?と聞くように。
 丁寧に、繊細に、差して手早く。
 悪魔の問いに最後の人間である私からのアンサー。
 答え。
 それは確かに胸の中にあった。でもずっとスルーしてきた。モヤモヤを通り越して衝動と自虐に走ったこともある。しかしやっと、やっとこの思いにやっと答えを導ける。
 思考を終え実践へと移行する覚悟が今やっとついたんだ。

 そのことに私は心が躍る。ついにやったと過去の自分を思い切り褒めてやりたい。

 今この一言に私のこれまでとこれからを全て託して。
 声が上擦りそうになるのを必死に堪え、今にも喜びで顎に滴らんとする大洪水を頬で受け止め、私は静かに悪魔に答えた。


「私、人間やめていいですか?」


「えぇ。その答えを待っていたんです」


 悪魔はニヤリと笑った。その時初めて、あ、この人は悪魔なんだと実感できた。滴る涙は悲しみと共に消えた。私は初めて、この顔で笑った。


 今日もここでは人が死ぬ。

 今はここで二人が死んだ。


 電車は止まってラッシュの都心は大混雑。

 無理心中とか困るんだよね。


 どうせあなたも地獄行き。


 死ぬのが仕事なんじゃあなかったのね。


 悪魔のささやきなんて、ありはしない。