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現代意訳金剛経 序文(1) 読み継がれてきた "経典"
『金剛般若波羅蜜経』、略して『金剛経』は、般若経典群に属する大乗経典で、地理的には広範囲にわたってさまざまな言語に翻訳されています。「空の思想」を説く経典として、東アジアでは最も影響力のある一つとされており、とくに禅宗では歴史的にも『般若心経』と並んで重んじられています。
1.古くから各地で読み継がれてきた ”空の経典”
サンスクリット語の『金剛経』が書かれた年代は、学問的には正確にはわかっておらず、西暦2世紀か5世紀ごろであるという議論がなされているようです。いずれにしても大乗仏教の最初期に空の思想を説く経典としてまとめられた、般若経典群の中核を為す経典です。
初期の翻訳が中央アジアおよび東アジア各地で発見されており、当初から、この経典が広く研究され、翻訳されたことが示唆されています。 『金剛経』の最初の漢訳は、401年にクマラージーヴァ(鳩摩羅什)(344 - 413)によって行われたと考えられています。彼の翻訳スタイルは、正確な文字通りの表現ではなく、意味を伝えることを優先していることを反映した、流れるような滑らかさを持っていると言われます。その後も複数の翻訳がなされました。
特に禅宗において『金剛経』は、六祖慧能(638 - 713)の宗教伝記である『六祖壇経』の第一章で大きく取り上げられています。六祖慧能はその朗誦を聞いたことが啓発的な洞察を引き起こし、出家への転機をもたらしました。そのため、慧能の流れを引く禅宗では、それまで中心的な経典であった『楞伽経』に代わって、この『金剛経』が重視されるようになりました。日本に伝わった禅宗はこの流れを引いております。
2.頑迷な私たちの認識を打ち砕け!
『金剛経』のサンスクリット語の経名は『Vajracchedikā Prajñāpāramitā Sutra(ヴァジュラッチェーディカー・プラジュニャーパーラミター・スートラ)』と言い、大まかに訳すと、「金剛石を打ち砕く卓越したプラジュニャーの認識力に関する経典」または「金剛石で打ち砕く如し卓越したプラジュニャーの認識力に関する経典」となります。
この経題は、究極的な現実に到達するために、金剛石、ダイヤモンドのような強固な私たちの固定観念を切り裂き、打ち砕くプラジュニャーの認識力としてのたとえと、ダイヤモンドの如し強固なプラジュニャーの認識力たとえと、二通りの解釈があります。私は前者の解釈を取っております。
3.空の背景となる「縁起」
一般的に、『金剛経』は空の思想を、「空」という言葉を用いずに説く経典として知られております。しかし、その言葉の持つ「否定的」ニュアンスから、ある種のニヒリズム(虚無主義)を連想させて、その理解は誤解を招くことが往々にしてございます。
私自身、お恥ずかしいことですが、これまで二十有余年、禅を通して仏道を歩ませていただいてきたのですが、禅や、空、無といった仏教独特の思考を全く理解しておりませんでした。そのため、修行底は遅きに失するのです。そんな中、平成三十年だったでしょうか、一冊の本に出会いました。
それは真言宗の僧侶、髙神覺昇和尚(1894 - 1948)のお書きになった『佛敎聖典般若心經講義』という、昭和九年に発刊されたもので、大変著名な本です。その本の中にこのような一文がございました。少し長いのですが、ご紹介させていただきます。
「空とはなんぞや?」、「空とはどんな意味か」という問題を、說明するのでありますが、はじめから皆さんに「空」とはこんなものだと說明していっては、かえってわかりにくいし、またそう簡單にたやすく說明できるものではないのですから、その「空」を說明する前に、まずはじめに、「空の背景」となり、「空の根柢」となり、「空の内容」となっているところの「因緣(縁起)」という言葉からお話ししていって、そして自然に、空という意味を把つかんでいただくようにしたい、と思うのであります。
なぜかと申しますと、この「因緣」という意味を知らないと、どうしても空ということが把めないのです。(中略)
「因緣を知ることは佛敎を知ることだ」と、古人もいっていますが、たしかにそれは眞實だと思います。釋尊は、實にこの「因緣の原理」、「緣起の眞理」を體得せられて、ついに佛陀となったのであります。菩提樹下の成道、というのはまさしくそれです。げに、わが釋尊をして、眞に佛陀たらしめたものは、全くこの因緣の眞理なのです。
4.縁起しものには「実体が無い」
私はこの文言に出会ってから、あらためて「縁起」を学び直し、「空」や「無」、仏教独特の否定的表現方法や、禅問答の不可思議さなどの理解が進みました。ここで「縁起」をご説明します。
縁起とは、あらゆるものごとの究極的な成り立ちは、様々な他のものごとに条件づけられて、それらが複雑に絡み、重なり合わさって成り立っているとする考えであり、仏教における存在の法則を言う。
この縁起はものごとの成立、組成、形成に関する原理で、ブッダの悟りの内容を表明するものとされ、ブッダの多岐にわたる思索および教理の根幹をなすのです。根幹を成す考えであるため、とくに「縁起の理法」「縁起の道理」などと呼ばれるのです。この『縁起の研究』ではその縁起の "法則性" を「縁起の法則」と呼ぶことにします。
ブッダ、そしてその後の祖師方は、この縁起の法則の研鑽を重ねていき、あらゆるものごとは、様々な条件が、重なり合わさって成り立っている以上、そのものごとを根拠づける究極的な本質は特定できないとする考え、そのことを「無自性」と言い、個人を根拠づける究極的な自己は特定できないとする考え、そのことを「無我」と言ったのです。さらにその縁起によって成立するものごとの、究極的な状況と状態を「無常」と表現したのです。
そしてブッダは、この縁起の法則をもとにして、ものごとの究極的な現実は特定できない、「ものごとには実体が無い」という考えにたどり着いたのです。