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縁起という言葉(1) 縁起は因果論なのか
一般的に縁起は因果関係を考察する因果論として説明される事があります。ここでは、縁起は因果性なのかについて、縁起という言葉を通して考察したいと思います。
1.縁起は因果論なのか
まず因果性の定義を辞書で確認しますと「原因と結果の関係」および「何事にも原因があるとする原理」の2つを挙げられます。前者のように具体的な規則に従っての因果性を言う場合、因果の法則、あるいは因果律といいます。後者のようにあらゆるものごとにあてはまる根本的な原理としての因果関係を言う場合、因果論と言ったりもします。これらの因果性に関する様々な考えを因果説とも言います。
因果性の論議は、釋尊のおられた古代インドのみならず、古代中国、古代ギリシアにおいても行われてきたことです。また近代哲学や自然科学、宗教、医学、法学などにおいても、数多くの因果性や因果論がまとめられ、それぞれ因果説として説かれてきた人間の思考の中でも基本的かつ第一義的なもののひとつでございます。
それでは、縁起は「原因と結果の関係」「何事にも原因があるとする原理」という因果論であると言えるのでしょうか。
結論から申し上げますと、私は縁起は因果論ではなく、むしろ存在論であると考えております。
2.順の順序に縁起について考えた
〈縁起〉はサンスクリット語でpratītya-samutpāda(プラティーティヤ・サム・トパーダ)と申します。これはプラティーティヤとサム・トパーダの合成語です。その原意は「関わり合わさって成ること」というほどの意味です。この語が「縁起」と漢訳されました。この言葉の内容が釋尊の悟りの内容を表明するものとされているのです。原始経典には釋尊の悟りに達したときの様子が、このように記されています。
その時、世尊(釋尊)は7日が過ぎてのちにその冥想から出られた。そしてその夜の宵の口、(苦の)順の順序に従ってプラティーティヤ・サム・トパーダについてよく考えられた。
ここにプラティーティヤ・サム・トパーダという語が出てまいります。この語が古代インド哲学ですでに用いられていたのかどうか、学問的真偽について私は調べ切れていないのですが、私はこれを釋尊の言葉と深く受け止めております。
そこで「(苦の)順の順序にプラティーティヤ・サム・トパーダについてよく考えられた」という記述をもう少し丁寧に読んで見ましょう。
原文のパーリ語では、『paṭiccasamuppādaṃ anulomaṃ sādhukaṃ manasākāsi』と記述されております。
「縁起(paṭiccasamuppādaṃ)、順の順序、順に従って(anulomaṃ)、よく(sādhukaṃ)、考えた(manasākāsi)」となります。日本語に翻訳しますと「縁起の順の順序をよく考えた」と読むのか、「順の順序に縁起をよく考えた」と読むのかが考えられます。どちらなのでしょうか。
漢訳では「善作意順縁起」とあり、これを和訳すると「順に縁起をよく考えた」と読めます。英訳では「gave well-reasoned attention to dependent arising in forward order」とあり、これを和訳すると「前方向の順に縁起に対して注意を払う」と読めます。
ここで注目したい言葉は「anulomaṃ」という語です。anuが「適切に」で、lomaṃが「順序」「従って」という意味です。漢語では「順に」、英語では「前方向の順に」となり、いずれも副詞的に翻訳されています。つまり『paṭiccasamuppādaṃ anulomaṃ sādhukaṃ manasākāsi』は、「順の順序に縁起についてよく考えた」という意味であり、釋尊がよくお考えになった対象はプラティーティヤ・サム・トパーダであって、順の順序(anulomaṃ)はその方法として用いたと私は考えます。
3.因果性を方法にして縁起について考えた
そこでその「順の順序」の具体的な内容について見ると、実はこの段の後に〈十二因縁〉が記されております。十二因縁とは、人間の苦が成り立つ12の要素を原因と結果、その原因と結果、そのまた原因と結果というように系列として経時に示したものです。ここではその詳細は割愛いたしますが、それが「苦の順の順序に」の意味です。ここで言う「順」とは原因から結果を辿る順序です。また同時に釋尊は、逆の順序(paṭilomaṃ)、結果(苦)から原因を辿る順序からも、縁起についてよく考えられたと記されております。
ですから、順序:lomaṃとは、結果から原因への結びつき、あるいは原因から結果への結びつきの意味になります。これは今の言葉で言い換えますと明らかに因果性といえるでしょう。
もし上記の経典に「(苦の)プラティーティヤ・サム・トパーダの因果性をよく考えられた」と記されているなら、縁起=因果性と見ることができます。しかし、「(苦の)因果性で縁起についてよく考えられた」と記されていることに、私たちはこの記述に深い観察が必要だと思います。
私が整理しておきたいことは、上記の記述から、釋尊は因果性を用いて、苦の縁起を考察されたのであって、縁起=因果性では決して無いということです。
縁起の原意は「関わり合わさって成ること」を言うのであって、原因と結果を言及している言葉ではありません。存在が「関わり合わさって成るもの」を検証するため、その適切な手段として因果性を用いたと受け止めたいのです。