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銃と毒薬 演劇/微熱少年 vol.2 『料理昇降機/the dumb waiter』について その4
人は無意識のうちに「チカラ」の魔力に囚われる。
『料理昇降機/the dumb waiter』では暴力や権威といった「チカラ」が人を支配する様が描かれる。もちろんそれが主題ではないし、それだけの作品ではない。しかし、その「チカラ」に絡め取られ翻弄される二人の殺し屋を、原題であるThe Dumb Waiterのダブルミーニングが嘲笑うように、その「チカラ」の矛先はすべての人間に向けられているのだと思うのだ。
舞台上に現れる登場人物は二人。ベンとガス。二人は殺し屋だ。それは、冒頭には明らかにされていないが、徐々に会話や舞台上で起こる出来事に対する反応で明らかになる。そして、彼らの仕事の道具である「銃」が登場する。
「銃」就中「拳銃」は人間を殺傷する目的のためだけにつくられた道具だ。護身用、自衛用など様々なexcuseが付与されてはいるが、一部の例外を除いて主たる銃口を向ける先は人間だ。
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力の弱い子どもや女性でも相手を制圧出来る。早打ちや命中精度の高い技術を持ったガンマンが一人でたくさんの相手を倒せる。そんな銃の使い方が多くの映画やドラマ、アニメ作品で描かれ、「銃による正義」は正当化されてきた。
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しかし、現実ではどうだったろう?銃が「在る」ことで起こる悲劇は後を絶たず、他者を力によって制圧しようとする者は挙って「銃=チカラ」を手に入れようとしてきた。
「チカラ」はそれそのものが悪ではない。しかし、それを持つことで思考や行動が変容し、その行使が「悪」になることがあるのは、歴史と、今わたし達が目の前に突き付けられている現実からも明らかだ。
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「銃」が「在る」世界という構造が起こす出来事が生み出す悲劇は否定出来ない。
恐ろしい話だが、そうしたことをアタマでは理解しても、人は実際の「チカラ」を前にその誘惑に絡めとられる時がある。
『料理昇降機/the dumb waiter』の演出プランを組み上げながら、衣装・小道具などの準備を進めるなかで、登場人物が使用する拳銃の準備をしていた。ちゃちな見た目で観る人に「オモチャじゃないか」と思わせることで意識を削がないよう、入念に実物に近い見た目になるように加工を施した。しかも、同じ銃を使う人物が違うことで起こる見た目の変化も盛り込んだ会心の加工が出来たと思った。そしてそれを確かめるため、鏡に向かってシューティングの構えをしてみたとき、私は愕然としたのだ。
「チカラ」を手に入れたような感覚。もちろんモデルガンであり、弾も発射されない発火タイプの「玩具」であるにもかかわらずだ。「その武器が本物ならばチカラになる」と知っているからこその全能感のようなものを感じている自分に気付いた。社会に銃が存在している国で、そのことによって引き起こされている悲劇はこれと無関係ではないと改めて理解出来た瞬間でもあった。
道具としての精度を演出の必要性から高めたいと手を入れたときにも、そうしたマッチョな欲求が無かったと言えば嘘になるだろう。そしてそれは無意識に「チカラ」の魔力に絡めとられる過程と同じなのだと感じた。
道具としての精度を披歴することで公演の宣伝になると判断し、銃の写真をSNSに投稿したことに違和感を寄せてくれた人がいた。「演劇人としてどうなのか」とまで厳しい叱責で指摘を寄せてくれた。オモチャを手入れてはしゃいでいる子どもが手にしているのが人を殺す道具だったような嫌悪を感じたのかもしれない。とてもありがたかった。そのfaultに気付かせてくれたことに対してだ。
情報の出し方としては明らかに失敗した。反省という言葉では足りないくらいの自責の念がある。自分としては銃を肯定しているような印象を与えないように、あくまで道具としてのこだわりを発信したつもりでいたが、その方曰く「ドヤ顔」と感じられた力の誇示のようなものがあったのだろうと思う。だったらほかの道具でも良かったのだし。
劇中で扱うのは、おもちゃのモデルガン、偽物の銃ではあるが、それを劇中で取り扱う以上、それを扱う演技にもそれが人を殺傷するだけの目的のためにある恐ろしさや愚かしさが描かれていないといけないのだと、明確に確信した。
自分自身への戒めと、この作品に興味を持ち、観てくださる方のガイドためにも、そのfaultを隠さず残し、それをめぐる考え方についても付記し関連付けて残そうと思う。
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人は無意識のうちに「チカラ」の魔力に囚われるのだ。
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社会的な立場の優位なものが持つ「チカラ」の理不尽な行使は「ハラスメント」になる。経済的に優位なものがその「チカラ」を再生産するために行使すれば「搾取」になる。「銃」という「暴力」を生む「チカラ」を一人に向けて使えば犯罪になるし組織だって使えば「戦争」になる。すべてはつながっているのだ。そのことに無自覚なままでいたら、私は本当に演劇人として活動を続けてはいけない立場になっていただろう。いや、誰かがその資格を決めているわけではないが、私自身が私自身を赦さなかっただろう。厳しい言葉で叱責を送ってくれた仲間に感謝している。心から。そして、その赦しを請う営みでもあるような気がしている、この『料理昇降機/the dumb waiter』を創り上げることは。