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大の字で、「めんどくせー!」って叫んでいます。ポジティブに諦めようぜ!!!!

何かをやるきっかけとして、負のポジティブさというか諦めからの、希望への執着みたいなものを見つけるのがアリなんじゃないかと思っている。
「どれもこれもやりたくない。せめてあれをやりたい。あれをやるためにはこれをやりたくないから、あれをやるためにこれを徹底的に避けてみる。そしたらいつのまにかあれが目の前に…」的な展開だ。

あることを頑張って2年半かけて進めていたが、コロナ禍ということもあり、今はそれが思うように進まなくなってしまった。ここで、それがこんな状況でも突き通したいと思えるほど自分にとって価値があるものなのなのかがここで分かってくる。負のポジティブで拓けたものって、意外と脆い。アリなんだけど、やっぱり正のポジティブには勝てない。

「別に良いや。ほんとーはどーだって良いんだもん。」と、仕方ないから頑張って拓いてたけど、足止めを食らって中々成果も出ないままだと、モチベがどんどん下がる。「頑張って、しっかり、」もう一度取り組んでみないと、モチベを上げられない気がする。そうしないとダメになってしまう程度だったのか⁇と感じている。

そうやって沈んだ時に、自分を持ち上げるためにやってる事が本当にやりたい事なのかもしれないな、と思い始めた。目的を遂げるための手段のはずが、手段が目的になってしまって本当の目的さえも、自分にとって価値があるものか分からなくなっている。

口に出して人にさらけだしたあとで、あれ?なんか一見すごくマトモで色々考えてる人に見えるな?ってなったんだけど、そんな自分に冷めてしまった。誰かに面白がってもらえることが嬉しくてやっていたけど、本当にやりたい事なのか?自分にとって価値がある事なのか?

自分も楽しくて未来を感じられて、なおかつ人に面白がってもらえないと意味ないなと思い始めた。今まで自分が考えた事を面白がってもらう経験がなかったから、初めて自分が認めてもらえた気がして嬉しかったんだ。でもそれが目的ではない。それはいつかの話で、付け焼き刃を面白がってもらっても、自分は満足できない。

自分が面白いと思って突き詰めたものを面白がってもらわなければ、その原動力は冷えてしまう。他人の言葉で「うるせえな、本当はどうだって良いんだよ」って気持ちになって揺さぶられるような負のポジティブさから生まれたものは、弱い。

負のポジティブさが悪いわけではなく、そうやってある意味惰性に飾りを付けてやっていたものの先で、揺さぶられて叩かれて傾いた時に出てきたものが正のポジティブなものに転化するんじゃないかと思うということ。

過程として、諦めて進んだ道で負のポジティブさを持って目的が出来た。その目的のために、手段を踏んでいた。すると、楽しい事や面白がってもらえるという経験ができた。しかし、「これからどうしていくんだ?」と目的を問われた。私は目的を語るが、根っこの自分は諦めて進んできており、綺麗事のような大義名分しか語る事ができない。本当の自分の目的は、「あれをしたくないから、これをしようと思ってる」という浅いものなのだ。

手段を踏んでいく上で、目的に辿り着くためには、手段の門番に『あなたの根っこはなんですか』と問われてしまうこともあるのだ。そして自分はこれに答えられない。挙句、自分は「めんどくさい。説明できない事もあるんだ。」とキレそうになる事もある。心が伴っていないと、門番からの問いにも答えられない。得意な事でも好きな事でないと語る事ができず、自分は進めないのだという事が分かったのだ。

そして今、揺さぶられて傾いて転がり出てきた、正のポジティブな目的。得意な事で好きな事。やってみたい事。やれるかもしれない事が目の前に現れて、その扉を叩こうとしている。

私は負のポジティブで進んでいる時、積極的に言葉に出す事で次につなげ、虚栄を張り、「自分は確かに道を進んでいる」実感を得ていた。しかし反面、否定されると努力して虚栄で作った壁が剥がれ落ちる感覚がした。

今度は、ハイブリッドで行こうと思う。積極的には話さない。確実に自分の身になったものを開示する。馬鹿にされて心折れるのは勿体ないので、馬鹿にされないレベルまで引き上げたと自覚してから開示するのである。一見、自信がないような臆病なやり方に見えるかもしれない。しかしこれは、私なりのクオリティーへのこだわりで、譲れないものを守る方法だ。

それが新しい私の、目的のための手段であり、正のポジティブであり、負のポジティブであり、努力になるのだ。私はこういう人間だ。
諦めて次に進もう。

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