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夜明け前の青の匂い・第2章

 久しぶりに漁に出るのを休んだ朝だった。
「じゃあ、お母さん、行ってきます」
「理沙、ちょっと待って。雨が降るかもしれないからちゃんと傘持って」
 玄関の方からは娘と妻のやり取りが聞こえていた。
「昼頃から雨、降りそうだね」
 そう言って、寝室に入ってきた彼女は、小さなちゃぶ台に、保温ポットとおにぎりと小型のDVDデッキを置いた。
「ねぇ? 海斗、何か見たい映画ある? 」
「ノコさんの好きなのでいいよ。俺はどうせ寝てるし──」
 彼女が布団の中に入ってこれるように俺は左に体を寄せた。彼女も朝だというのに普段着のデニムのまま布団に潜り込んだ。
 曇の日の朝、部屋は鉛色になる。どんよりとこの世が終わるみたいに、晴れた日の陽射しが嘘みたいに。ボリュームを下げて、彼女は勝手に映画【歩いても 歩いても】を見始めた。俺は寝たふりをして目をつむる。結婚して何年経っても、隣で寝ていても、俺には、なぜかずっと妻である彼女のことが遠くに感じて『ノコさん』と昔の呼び名のまま呼んでいた。
 漁師の仕事にだけは誇りをもって、海に飲み込まれて命を落とすなら本望だと覚悟は決めていた。

 だけど、来年の春、中学生になる娘の理沙は漁師をしてる俺のことが大嫌いだった。『ゴツゴツした手も、染み付いた潮の匂いも臭いから近寄らないで、参観日も運動会も来なくていい。なんで、お母さん、美人なのにお父さんみたいな変な人と結婚したの? 本当にそこだけは許せない』まさか思春期や反抗期とはいえ、自分の娘にこれほどまで嫌われるなんて思わず、こんな扱いを受けるぐらいなら、ずっと海の上で漁をしている方がマシだと思った。いや、いっそのこと、理沙が中学受験して、かみさんと市内でふたりで暮らしてくれたらとさえ。海に出てないと余計な悩みがどんどんと心を占領してくる。

「ねぇ、出ようかな? 理沙と一緒に」
DVDを見ながら、突然、彼女が言ってきた。そして、
「ちょっと役場に行ってくる」
そう言うと、いきなり起き上がった。俺がずっと恐れていたことがこれから起こるようなそんな予感がした。そりゃそうだ、今どき、こんな田舎で漁師の嫁なんて面白くないに決まってる。これでいい、好きにすればいい、勝手にすればいい。そう思って、寝たふりをしたまま、車のエンジン音だけを聞いていた。1時間ほど経っただろうか? 彼女は帰宅した。

 とうとうきたんだ、その時が。俺は覚悟して起き上がった。寝間着のスウェットのままでそのまま台所へ行った。テーブルの上にはA4サイズの封筒が置いてあった。
 やかんでお湯を沸かしていた彼女に向かって
「ノコさん、離婚……だよな? 」
 俺は聞いた。
「離婚? 」
「理沙と出ていくんだろう? 」
「何? 勘違いしてるの? それはね、理沙が今日いつもより早く帰宅できるらしいから、映画に行こうかなと思って。海斗はしんどそうだから、そのままビジネスホテルにでもふたりで泊まってもいいかなって。その前にマイナンバーのことで役場に聞きに行ってきたんだけど──離婚って? 」
「いや、ずっと考えてたんだ。今どきやっぱり漁師の娘って理沙も嫌だろうし、ノコさんだって本当は退屈なんじゃないかと思って──」
「だから、何度も言うように嫌いだったらとっくに別れてるから。それより、ずっと寝てるけど体調悪い? 」
「いや、考え事してただけだから」
「だったら、久しぶりに海斗もどう? 一緒に出かけない? 年末になればバタバタしてそれどころじゃないでしょ? 」
「でも、理沙が……、一緒に歩きたくないと思うんだ」
「理沙ねぇ、言わなかったけど、海斗に漁師やめてもらいたいんだよ、本気で。その理由はね、死んでほしくないんだ。理沙だってもう自然の怖さはわかってる。だから海斗が漁に出てるとき、あの娘、いつも祈ってるの。波にのまれませんように、って」
「俺が気持ち悪いんじゃないの? 」
「反対だよ。私の前ではお父さんが男らしすぎるから、クラスの男子に目がいかないって話してたよ。多分、恥ずかしいんだよ。父親に対して素直になるのは。海斗だって理沙のまえではぎこちないのと一緒」
 ノコさんの話を聞いて一気に力がぬけた。
「ただいま!! 」
「理沙、おかえり。今から久しぶりに3人で出かける? 母さん、見たい映画があるんだよね。ゆっくりしたいからさ、ホテルにでも泊まろうと思ってるんだけど」
「待って、じゃあ、すぐ着替えるから」
「理沙、お父さんと一緒でも大丈夫か? 」
「なんで? お父さんいないとお金使えないでしょ? もちろん、一緒に」
 雨はまだ降っていなかった。朝と同じ部屋の中はどんよりと空が落ちてきそうな鉛色だった。
 「お父さんも早く着替えてよ。せっかく3人が揃って出かけるんだから、クリスマスも近いし、私に何か買ってよね」
 理沙の声が光みたいに部屋に響く。

 「おやおや、雨が降りそうなのに、こんな時間から出かけるのかい? 」
 デイサービスから戻ってきた裏のおばあさんが俺たちに声をかけてきた。
「そうなんです。雨模様の日ぐらいしかなかなか家族が揃わないんで天気は悪いんですけど、楽しんでこようと思います」
「ほうねぇ、ならいってらっしゃい」
「おばあちゃん、いってきます。そうだ、おばあちゃん、二重焼き、お土産に買ってきてあげるからね」
 理沙はそう言うと、車の後部座席に乗った。
 ノコさんは傘を3本持って、理沙が座る座席の足元にそれを置いた。
 そうだ、俺はいつも目の前の海から、この家を見ていた。漁船から家を見ながら、祈ってたんだ。
 今日も無事でありますように、って。
 ノコさんと理沙は、ここから、海を見て俺の無事を祈っていたことを思ったら、胸を鷲掴みされたように苦しくなった。
「海斗、大丈夫? やっぱりやめとく? 部屋で寝とく? 」
「いいや、ちょっとさ、俺たちってお互いが海へと、海から、思い合ってたんだと思ったら苦しくなってさ」
「お父さん、遅い!! 何、今頃、気づいてんの!! 私なんてずっと幼稚園の頃から苦しかったよ。台風の海を見てるから、お父さんが海に飲み込まれてしまったら本気で嫌だって。だから、お願い、漁師なんてやめてほしいって。でもね、お母さんが言ったの。お父さんは私達と同じぐらい海を愛してるんだって。だから、私は我慢してる。お願いだから、雨模様の日には今日みたいに家にいてほしい」
 ずっと子供だと思っていた。いや、まだ理沙は子供だ。それでも、思えるようになったんだな、映画なんか見なくても、もうそれで充分だった。
 「じゃあ、行こうか──」
 目の前には、夜明け前、ノコさんが一人で見つめていた海があった。今はその海に沿って3人が走り出す。

 ポツポツと降り出した雨がまた空へと戻るように生まれてくる感情は心から飛び出して、また心へと人を通して戻ってくる。雨模様の日、俺は家族の心模様が見れて、柄にもなく泣きそうになったことは内緒だ。

 

 
 
 

 

 

 

 

 

 
 

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