自己紹介8「異端児な初期研修医の大阪生活」
医師免許を取得して「医師」となった私は、拠点を大阪に変えて新たなスタートが始まりました。
初期臨床研修先に阪大病院を選択したのは
当時の「遺伝子治療学会の理事長が在籍している研究室があるため」
というのが理由でした。
最新の情報を集めながら2年間の研修生活を行うことで
自分が進むべき専門領域を決めたいと思っていました。
そのために、医師国家試験を不合格にすることでマッチングした病院を蹴り、同期より1年間の遅れをとって医師になったわけですから
大阪へ行った後も「全責任を自分で背負う」という覚悟は変わりませんでした。
4月に研修医生活がスタートしてから
すぐに遺伝子治療学の研究室を訪問し
遺伝子治療学会の理事長との面談をセッティングしてもらいました。
そして、
「移植しても治らないような、全身性の病気の根本的治療法の研究に興味がある」
という想いを理事長にぶつけたとき、意外な返答がありました。
「遺伝子治療の研究は癌領域では進んでいるけれども、残念ながら全身性疾患の研究は進んでいないんだよ。患者さんの人数が少ない希少疾患は製薬会社にとってもお金にならないから、なかなか研究が進まない領域なんだ。」
これは理想に燃えていた自分にとっては厳しい現実を見せつけられた想いでしたが、最新の知見と常に触れ合える環境に身を置く人物からの言葉は非常に貴重でした。
そして次に、「自分が生きている間に何か結果を残す」ことを優先
させた上で「現実的に何ができるだろう」と考えるようになりました。
臨床研修を行いながら、空き時間を見つけては研究者たちの会議へ特別に参加し、興味のある研究のセミナーがあると聞いたら必ず参加するようにしていました。
結果的に、診療科に関わらず多くの先生方が自分の想いに応えてくれ、たくさんの遺伝関連セミナーへ招待してくださり、医療者に関わらず医学や基礎の研究者、バイオインフォマティシャン、数理学者など、様々な視点からゲノムを扱っている方々とお話しさせていただく機会をいただきました。
中でも、産婦人科のローテート中に胎児診断の専門施設へ数日間研修させていただく機会をもらい、異常胎児と診断された後の深刻なカウンセリングに陪席したり、併設されている遺伝子解析施設を見学できたことは、現在の自分の思想を形成した土台となりました。
(もちろん、良い意味でも悪い意味でも・・・)
また、大阪にいる間にちょうど「ゲノム編集技術」の話も出てきた頃だったので、私もこの手法に当然興味を持ったわけですが
臨床応用がなかなか進まない最大の原因として倫理的問題がある
ということに気づき、それを克服することは
私が生きている間に結果を出せる可能性、かつ最初にやるべきこと
と感じました。
「遺伝カウンセリングであれば、医師であり患者として、当事者の意見を広めていくことができる」
これは自分にとって最大の強みであり、絶対利用するべきだと思いました。
そこで、当時はまだ起業後1年ほどであった「株式会社ジーンクエスト」を訪問して自分の想いを伝えました。
高橋社長から「一緒にカウンセリング部門を作りましょう」とお返事をいただき
遺伝子解析サービスを受けたお客様のカウンセリングを担当することとなりました。
自分の使命に気づき、スキルを発揮できる領域を見つけたことは本当に幸運であり、早い時期にベンチャー企業に携わりながら勉強し、社会に貢献できたことは大きな喜びとなりました。
臨床研修を行いながら、カウンセリングの仕事を掛け持ち、最後の最後まで遺伝子治療の動向を追うことで、最終的に選択した専門領域は主に生活習慣病などを診療する「内分泌代謝内科」という領域でした。
産婦人科や小児科もだいぶ悩みましたが、自己紹介3「遺伝病の重み、当事者のリアルな声」で書いたように
「出生前診断は究極の予防医療」と考えている自分の思想とカウンセラー育成教育における思想が相反していたことから
直接的に人工妊娠中絶に関わるような診療科を選ぶことをやめました。
マイノリティすぎる自分の意見を押し通して医療現場で働くにはまだ時代の認識が追いついておらず
何か違うアプローチによって社会のリテラシーを変えていかなければならないと感じました。
また、ジーンクエスト社で多くの生活習慣病に関連するカウンセリング依頼を受けていたこともあり
まずは、世間にありふれている病気に対する「予防医療の専門家」という道から始めることに決めたわけです。
そして、自分が出した決断に納得しながら、人一倍有意義な2年間の研修医生活を終えた私は、東京へ戻ることにしました。
東京へ戻ってからの活動については次回の投稿で書きます。