1章-(3) 誕生と死
ひいいっ、あああああっ。かあちゃんの声が前より高くもれてくる。
かよは追い立てられるように、大鍋のふたを開け、湯かげんを見、それからバタバタと、裏の石段を駆け下りた。手桶に川水を満たすと、7段駆け上って、台所のかたすみにある風呂桶にざざあと移す。これを40回やらなくてはならない。
飲み水をどうしよう!水がめは空なのだ。休みなく石段をかけおり、駆け上りしながら、その心配が頭からはなれない。
「とめ、ちょっと!」
とうとう思い切って、かよは鉄びんを手に、とめ吉を本家へやることにした。本家は田んぼ3枚越えた向こうに見えている。大きな黒塀のお屋敷だ。
「あした、お返ししますけん、いうて、頭さげて頼むんじゃ。今日は特別 じゃけん」
水は、各家での責任だ。水のやりとりなど、めったにしない。まして、本家のばあちゃんは、かあちゃんの実の母親なのに、死んだじいちゃんとちがって、フキの葉一枚くれる人ではない。しげ伯母の長女の大人しいムコの他は、女ばかり4人で、ことある毎に、かよのとうちゃんやあんちゃんをこき使う。2反の田んぼを借りているばかりに、当然な顔をされるのだ。
とめ吉はつらそうに、口をへの字に曲げて出て行った。すえはまた、かよといっしょに、石段へやって来た。
「お水神さまにつかまっとんねぇ。すべって転んだら、お水神さまがつれてくでぇ」
かよは石段の一番上のかたわらにある、背の低い石どうろうを指さした。上側がほこらになっていて、つるりとすべっこい丸い石がかざってある。つやつやしたサカキの葉が飾られ、川水が小皿に少し供えてある。かあちゃんの代わりに、毎朝、このお水神さまの世話も、かよの役目だ。
すえはとうろうを抱えてしゃがむと、首だけねじって、かよを目で追った。
「ねえたん、トトは? トトは?」
かよは波立っている川面に目を落した。小さなメダカが、すいっと走った。ほら、そこにも、ここにも。すえは、川にメダカがいることに気づいていたのだ。かよのほてったからだに、じんと突き上げる物がある。春が来たんだ!
この小さな生き物が、川に戻ってくると、田の畦ぞいの溝にも、お玉じゃくしが生まれる。かあちゃんに、早う見せてぇな。有城の山に、花見にも行けらぁ。
「風呂にメダカが入ったで、さっきくんだ川水で」
かよは言って、クスクス笑った。台地の上の何もかもが、動きだすんだ。 かよの血も、負けじとトクトク脈打っている。
「かよっ!」
ひいいっ! ふんぎゃあ、ふんぎゃあ!
しげ伯母の叫び声と、赤ん坊の泣き声が重なった。
かよは手桶を転がして、石段を跳び上がった。すえもあわてて、追って きた。
生まれた! ふんぎゃあ、ふんぎゃあ!
「元気なおなごじゃあ。今度は早うすんで助かったが。かよ、かあちゃんに水やってくれ。口をパクパクしとるで」
さすがに、興奮を抑えきれないしげ伯母の声がする。かよはあわてて、表口に走った。とめ吉はまだ戻らない。
「これっ、ちよっ。しっかりせぇ。産んだちうて、せえで終りじゃねぇど。ちよっ。ちよっ。水ぐれえ、待っとれよ」
しげ伯母がわめきながら、かあちゃんのほおを、パチパチ叩く音がした。 かよはぬれはだしのまま、板の間を駆け上がって、板戸を引き開けた。
納戸の暗がりに、ぐったり首を垂れた、かあちゃんの白い顔が浮き上がった。汗に濡れた髪の毛を乱したまま、こと切れていた。
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