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エッセイ:どっきり体験集(1)~(10) 7.袋小路

 大学2年生の12月末近く、もうじき21歳になろうとしていた私は、荻窪の家庭教師先へ向かっていた。歳末で賑わう街道沿いを進み、小さな交番の脇から細道へ入ると、ほっと全身の力が抜ける。この道は車は入れない細道で、先は袋小路になっている。一番どんづまりの3軒手前が、生徒の待つ目的地だった。

 その時の私は、ひと月半前に卵巣のう腫の手術を受けたせいで、車や人の賑わいは刺激が強すぎ、目を細めていたほど耐えられなかった。体は冷えきって、目に入る何もかもが、灰色にしか見えず、私の心の中までも、灰色の渦が巻いていた。

 その日女子大の寮に、母からの茶色の大型封筒が届いていたのだ。これで3通目、見合いなんかする気はゼロなのに、と呆れながら開けてみて、頭をガンッと殴られた気がした。鼻の真上の眉と眉の間に、大きなこぶが盛り上がった男性の写真!  直径3~4センチはありそうだ。文伯母がすすめてくれて、母も賛成なのだと。「あんたはもう片輪なんだから・・」とくり返していた母の言葉を思い出した。この人も片輪と見なして、お似合いだと思っているのだ。

 工場を持つ健康な、40歳近い実業家で、仕事は順調、女中は3人いる、妻には家事などはさせず、気ままに好きなことをやって過ごしてくれればいい・・という条件なのだとか。母が気に入ったのは、その部分のはず。虚弱な上に、卵巣を片方取った私には、共働きなどしなくてすむ結婚を、と母は強く願っていた。

 このこぶのせいで、この人はいやな目にあったり、引け目を感じたり、結婚が遅れたりしたのだろう。ちらと気の毒という思いがよぎったが、目はそむけてしまう。年が違いすぎるよ。私の倍近い年じゃないか。母にムラムラする。見合いなどするものかと、反発した。

 親心なのか、厄介払いなのか、母は言う、手術で体も弱っているし、大学は2年で退学して、就職など考えずに、早く結婚しなさい、と。私は4人姉妹の2番目だが、私だけ過敏症や皮膚異常があり、結婚は望めないかも、と早くから予測していたので、それなら自立を目指さなくては、と高校生の時から考えに考えて、上京を決めていた。だから、どんな好条件の人であれ、中途退学して結婚など、問題外だった。

 とはいえ、先は真っ暗。二人の妹が、春には短大と高校に進学する。会社勤めしていた次兄が、京大の大学院へ4月から進学することになり、私には4月以後もう学資は送れない、とすでに宣告されていた。私立大学の授業料と、寮費とテキスト代は最低必要なのに、この健康状態でできるだろうか。

 うつむいてゆっくり歩を進めていると、私の脇ですっと自転車が止まった。目を向けると、見上げるほどの大男が、小さな声で私にこう言った。

「おじょうさん、ちょっと見て・・」と、はだけた股間を指差した。

 つられて目をやると、なんと大男にはあまりにも不釣合いなものが見えた。5、6歳くらいの男の子のくらいの、ウインナーみたいだった。父や兄達を知っていたので、大人でもそんなことがありうるのかと、私はその人を見上げると、思わずにこっとしてしまった。

 するとその人は、はっとひるんだように、大あわてで股間をふさぐと、自転車をぐいと押して、そそくさと走り去った。

 どうして今、私は笑ったんだろう? 私は考えこんでいた。いつもの癖で、笑うといつも、なぜ?  と思ってしまう。バカにしたり、見下したつもりはない。ただ驚いただけでもない。もっと深い、言葉にはしにくいけれど、よく考えると〈共感〉とでも言えるようなもの・・・あなたも悩んでるのね。あなただけじゃない、私もそうなの。

 人はみんな、何かしら悩みを抱えているんだ。大きすぎて深刻になったり絶望したりもするけど、自分の知らない解決方法が、何かあるかもしれないのに、その方法に辿りつけないだけかも・・。だれもが悩んでいるとしたら、慰め合い認め合う形で、私にもいつか結婚への道が開けるかも、と一瞬ひらめき、光が射した気がして、思わず笑みとなった気がした。

 それにしても、あの人はどうして、あんなにあわてたのだろう。にこっとされるとは、思ってもいなかったのか。悲鳴を上げるとか、嫌がるとか軽蔑されるとかを、期待していたのか。そうだろうか?  誰かに悩みを知ってほしくて、共感がほしくて、恥をしのんであんな行動に出たのでは? でも、今までは通じなかったのに、私の笑みは思いがけなかったのか・・。

 その時、またしても間近で自転車が止まった。

「変な男に会いませんでしたか?」と問いかけたのは、あの角の交番の警官だった。一週間前に、私は寒さによる腹痛で、しゃがみこんでいた所を、この人に助けられて、交番で火に当たらせてもらったことがあった。その時、温かいお茶もごちそうになった。

 私は反射的に首を振った。物思いしていたせいで、口をきくのがおっくうだった。

「それならよかった。気をつけてください」と言い残すと、警官はそのまま自転車を進めた。目で追っていると、自転車は突き当たりで、左へ曲がって木の陰へと姿を消した。なんだ、この道は袋小路じゃなかった! 左に曲がる道が隠れていただけだったのだ。

 その日、家庭教師の12月分手当てがもらえて、倉敷へ帰る列車の切符が買えた。そして正月を実家で過ごす間に、私は母に宣言した。「見合いはしない。女子大は卒業して、資格を取り教師になる。仕送りは期待していない」と。不安ではあったが、覚悟して自分で何とかしなければ、道は開けないのだ。

 年が明けて、女子大に戻った頃、英文科のN先生が、憔悴して見えたらしい私を呼び止めて、話を聞いてくれた。それで学費の心配を打ち明けたところ、すぐに教授会にかけて下さった。幸いなことに、そして有難いことに、卒業後に返す学費奨学金を頂けることになり、日本育英会の奨学金と合わせて、なんとかやり過ごせることになった。もちろん家庭教師のアルバイトは毎日やることにして・・。なんという幸運!

 N先生の問いかけがなかったら、その後の私がどうなっていたか・・。自分の覚悟だけでは足りない、大きな助けを、先生からも大学からも頂いていたのだった。

 あの日、私は人生の幸福への階段を、一気に駆け登って、転機の踊り場に立ったのだ。その後も何度か階段を登って行くことになるのだが・・。

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