(私のエピソード集・6)リア王公演
私が真夜中に抜け出して、駅の線路を目ざして行ったとは、予想もしないだろうが、夜明け前に戻って来たことには、Aは気付いたようだった。が、どうしたの、とも、何かあったの、とも何も訊かなかった。その原因が、何だったかは、思いもよらなかったと思う。
私は何事もなかったように、劇の練習をつづけ、4月からは、寮に戻って当番をし、授業の出席、アルバイトも続けていた。衣装作成については、ゴネリルとリーガンの悪女姉妹を、ビロードの色違いの布で、ドレスを作って、性格を表すことにした。
リーガン役のMは、紺色で冷酷さを表し、私のゴネリルは真っ赤なビロードで、妖艶さを表すことにして、二人で渋谷へ布を買いに行き、彼女の新しいマンションで、ミシンを使うことになった。
そのマンションのビルは、彼女の父親が建てたものとかで、オール電化されていて、どの部屋も暖房が効いていることに、まず驚いた。倉敷では、そんな家は見たこともない、最先端のビルだった。(後の有名なMビルの1号館だったのだと思う)
舞台に出るためのメイキャップは、民芸の役者に教えてもらった。その頃の私は、前年の秋の手術後で、4キロもやせていたので、妖艶さを出すため、肉太に見せるために、体中に布を巻き、大きめのブラジャーをつけた。リーガンはもともと細身の人で、紺色のビロードがよく似合っていた。
台詞の発音については、英国大使館から女性の方が、私たちの英語をチェックしてくれた。パーフェクト、と言われると、最高に嬉しかった。
こうして、4月後半の『リヤ王』公演は、死んだコーデリアを、女性リア王が、抱き上げて嘆く場面を含めて、無事成功に終わった。
私が衣装と化粧を落して、寮に戻ろうとしていた時、意外な事が起こった。楽屋口に、横田基地から観劇に来ていた将校が、ゴネリルに会いに来たとかで、私が呼ばれたのだ。
何だろうと思いながら、普段着に着替え、化粧も落とした素の姿で、戸口に出て行った。その時の、その人の驚きの顔!
あなたが本当にゴネリルか? と問われ、そうですけど、と答えると、信じられない、あんなに美しく豊満だったのに、こんなに小柄な人だったのか、と落胆の様子! 確かに私は、11センチのハイヒールをはいて、脚の痛みを我慢しつつ、丈も幅も大きく見せていた。おあいにくさま!
彼はなんと私の唇に、強烈なキスをした。初のキスを、何の関係もない、知らない人にされちまったと、当分の間むくれていた。一方で、妖艶を目ざして、ほんとに妖艶に見えたんだ! と驚いてもいた。それなら、大成功だったんだ!
その後、私はその研究会を脱会した。一方で児童文学の会にも属していたので、軸足をそちらに移すことにして、Aとは離れていることにしたのだった。