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B・ドハテイ自伝抄訳 (1)

Berlieが5歳から作家になろうと決めていたのは、鉄道事務員の父親が、毎日タイプライターに向かい、詩や短編を雑誌に発表していて、彼女はお話をいつも父にしてもらう父親っ子だったから。作家は毎日タイプに向かい、執筆活動をするもの、と胸に刻んでいた。

(以後、”Something About the Author Autobiography Series vol.16”を抄訳。自伝ゆえ、バーリー=私)

●最初は、私が書いたものを父がタイプで打ってくれて、リヴァプールの地方紙の「子ども欄」に投稿してくれた。自分で打てるようになり、掲載されると「10シリング6セント」か、「チョコ、絵の具、花火」のどれか一つをもらえた。作家はいつもこんな物をもらっているのだと思っていた。

14歳の時、地方紙から「年齢制限で載せられない」と連絡あり、大ショック。これで執筆はお終いに思えて、自分に籠もるようになり、書く物も隠して、人に見せなくなった。

その後、書くようになったのは、ずっと後のことだ。

1943年、11月6日、母は40歳近くで私を産み、体調を崩し、回復までに5年かかった。私は叔母宅に預けられたり、13歳年上の姉が母代わりに面倒をみてくれた。母のしつけ方は、怒鳴るか、叩くかだった。(父は一度も叩かなかったし、私も子どもたちを叩いたことはない) 母とはほとんどきちんと話したこともなく、70代半ばで亡くなった後になってから、母はよくぼんやり夢想していたが、何を夢想していたのか、聞いておけばよかったと、後悔している。母は、娘時代は社交ダンスダンサーで、パーテイの花形だった。母の夢想好き=Love of daydreaming を、私は受け継いでいる。

年の離れた兄は、英国空軍の飛行士で、絵はがきを送ってくれたが、顔も様子も知らなかった。

●10歳の頃、毎日のように朝礼のたびに失神して、大好きな先生に抱かれて外へ運んでもらって救われたが、その先生が「いずれ君は作家になるよ」と言ってくれた。友だちが教師の残酷な暴力を受けるのを、目にすることの多かった学校で、最高に優しい先生だった。

●1954年、私の最終学年の11歳の時、この物静かなヒーニー先生が、自殺した。入浴中に手首を切り、湯が冷めて、血で真っ赤になっていたという噂だった。そのため、convent school=カトリックの修道女学校への奨学金を得て合格した知らせは、この先生からではなく、暴力教員のデブリン先生が、クラスの皆の前で私を立たせて、伝えたのだった。

家が貧しく制服が買えず、教区牧師の情けで「Green Uniform」を入手した。父はカトリック教徒ではなく、施しを受けるのを恥じて、私の学校へは一度も来てくれなかった。

●女学校へはバスを乗り継ぐか、自転車で通っていた。自転車はいつもチェーンがはずれ、それを自分で直して行くので、両手を真っ黒にしたまま学校に着いたものだった。

この女学校では、ほとんどが非常に金持ちの少女たちで、私はかなり貧乏だった。うまくやっていくためには、リヴァプール訛りをやめ、爪を清潔にし髪は三つ編みに、外遊びの代わりに宿題を、と変えなくてはならなかった。

狭い地区で、全員が地区の学校へ進学する中で、ひとりだけ特別の私立学校へ進学したため、村の友人たちには究極の裏切りと思われ、絶対に許してもらえなかった。

●女学校には、美しい庭と修道女たちの墓地、出入り禁止の谷、草ぼうぼうの池があり、溺死した修道女の幽霊もいて、私は大好きだった。

生来の孤独好きと内省好きで、とりわけ、チャペルに籠もることが好きだったため、修道女になるよう勧められたが、私にその気が無いことが知られて、立ち消えとなった。

この学校で二人の教師に救われた。ひとりは音楽を、もうひとりは英語を教えてくれた。

●入学当初は、歌が大好きな私は、聖歌隊クワイアにどうしても入りたかったが、修道女の音楽教師に拒否され、自分は音痴ではと悩んだりした。

4年後に、a young lay teacher = 修道女ではない若い教師にクワイアに誘われ、ソリスト (独唱者) になった。その時から、音楽に夢中になった。3人でフォークグループを結成したが、そのうちのひとりが事故で死に、若くても死ぬのだ、と初めて知った出来事だった。

●1960年代は、フォークソング全盛期だった。

●音楽にのめりこみ、ダラム大学に入ってからは、クワイア、マドリガルズ、オペレッタ  (軽歌劇)  のクラブに属した。フォーククラブ創設にも加わった。労働党集会にも招かれて、会が終ると歌うので、政治にも関心を持つようになった。カトリックの影響で、社会主義には疑いを持っていたが、驚いたのは、彼らがごく普通の人たちで、熱心な話し合いが非常に面白かったことだ。

●ダラム大学で英文学を学び、英語の学位は採れたが、文学の知識が広がるほど、作家になる自信は小さくなった。友だちにもそういう人が多かった。

●英語の学位を得て、ダラムを去り、もっと広く人間の精神的状態を知ろうと、哲学や歴史を学び、ソーシャルワーカーになるため、リヴァプール大学へ進んだ。この時、もう一つ情熱を注げるものを見つけた、歩くことだ! 週末ごとにウオーキングに夢中。

大学2年の最初の日に出会い、後に夫になるゲーリー・ドハテイを訪ねに、ダラムへ行くのではなく、山々を越え、北ウエールズまで出かけた。30分の散歩のつもりが、3時間後に戻ったり、後には8マイル  (=12.8km)  も歩いたりしていた。山の頂上から谷間を見下ろし、夢想するのが好きだった。平地の森林地帯を歩くのは楽しいと思えない。

●リヴァプール大学で資格を取り、ゲーリーが大学院生として勉強中のLeicester  (レスター市)  へ行き、その街でソーシャルワーカーの職についた。仕事は大好きで、夢中になって子どもや家族の克服できそうもない問題について取り組んだ。今思い返してみると、よくまあ、あの仕事ができるだけのスタミナと神経があったものだと呆れる。私はまだ22歳か23歳だった。若くて、経験も無かった。夜考えずにはいられなかった。高度な教育を受けた私が、手助けしようにも限界を感じるほど、救いがたい状況の世界だった。女性や子どもたちが家族の中で、肉体的に虐待されていた。親たちは育児を放棄し、子どもたちは、出会う大人たちを恐れ、疑いの目で見ながら、小さく縮こまっていた。

●しかし、私が職についてまもなく、1966年(23歳)、ゲーリーと学生結婚。1ヶ月後、妊娠した。ソーシャルワーカーの仕事は、1967年(24)退職。 10ヶ月働いただけだった。あれから20年経っても、自分が関わった実例のリストをよく思い出す。悲しい思い出だった。が、彼らのことを書いたことはないし、これからも絶対に書かないつもりだ。それほどに、現実世界は虚構の世界になじまないほど、酷いものだった。

●夫ゲーリー・ドハティは才能あるセミプロ歌手であり、シェフィールドの母校の教師となり、一家でシェフィールドに引っ越した

4年間に3人  (女・男・女)  出産。子育てを楽しみつつ、音楽活動に邁進。時間を見つけては、二人で編曲し、練習し、歌い、時に作曲もして、近所迷惑だったに違いない。が、この頃の私ほど、最高に幸せだった人はいないだろう。

私は子どもたちを、自分の母との関係のようにしたくはなかった。母は病気がちで、私と遊んでくれたことも、本を読んでもらったこともなかった。    私の子どもたちには、洋服、食事、すべてを手作りし、共に絵を描き、物語作りを子どもたちと一緒にした。その時間が楽しく、若い母親であることを満喫した。家はけわしい丘の上にあり、ヨークシャーの美しい景色を見晴らせた。乳母車を押しながら、毎日そこを歩いた。

そして夜になると、ベビーシッターに子どもたちを預け、夫婦で夜のクラブへ歌いに出かけた。ゲーリーはフルタイムの教員で、私は3人の子育て中だ。その仕事の後で、シェフィールドから60マイル(=9.6km) 範囲内にあるクラブへと、週に数回公演に出かけていたのだ。・・・二人共に、極度の疲労段階に達することになったのも、むりはなかった。。

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