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 3章-(6) 失神

左胸が重かった。どこかがジーンと痛む。その痛みで香織の目に、光が戻りかけていた。その時、何か風のような気配が唇のあたりをかすめた。何かが触れようとして遠のいた。

それから、軟らかいあたたかいものがそっと唇に触れた。両頬をやさしく やさしく触れる気配もあった。香織はふるえて、また何もかも闇に包まれてしまった。

気がついてみると、頬をピタピタ打たれていた。香織は草の上に寝かされている。結城君の真剣な顔が、間近にのぞきこんでいた。香織の両脚の下に リュックが置かれ、両脚を高くしている。頭には濡れ手ぬぐい、胸の上にはチョッキがかけてあった。先程の峠の上らしい。あの若木が大きく斜面の方にかしいでいた。

香織が身をよじって起きようとすると、結城君が顔をゆがめて、香織を抱きとめた。

「よかった、気がついて・・ごめんよ、ごめんよ、ごめんな」

声がうわずっている。今にも泣き出すのでは、と香織はドキドキしてしまった。こんな大きな人を泣かせるなんて。香織はなんとか力を入れて起き直ろうとした。まだクラクラしていた。

「あ、いたい!」
「ごめん」

結城君が香織の腕から手を放した。袖をたくし上げた左腕に、長い擦り傷があった。土もついて、血がにじんでいる。左足にも痛みがある。ズボンの下にも、ソックスの上にも血と土のあとがあった。

「先生のところへ行きたい。薬をもらわないと・・」

香織はふるえ声で言った。一刻も早く、皆と合流したかった。結城君と2人だけでいるのは、むなさわぎがした。

「君は今すぐ、エネルギー補給をした方がいい」

結城君はそのつもりだったのか、自分のリュックから出してあった、はち みつレモンの缶を手早く開けた。それからチョコレートの箱の、口を開けたひと箱を、香織にさしだした。香織はなんとか身を起こして、それを受け 取った。

冷たいジュースが香織の全身の汗を鎮め、チョコの濃い甘さが元気を与えてくれた。いくつもおいしそうに食べる香織に、結城君はほっとした様子だ。 

「もうだいじょうぶか」

香織はうなずいた。

結城君は自分のリュックを右の腕に下げて、重さを確かめた。紫トレーナーの背や、ジーンズのあちこちに土がついている。

「もうだいじょうぶです、遅らせてしまって、ごめんなさい。みんなに追いつかないと・・」

香織が言いながら、草の上のリュックを背負うと、結城君はついと片膝を ついて、香織に背を向けた。

「少しの間、おぶってやろう、さあ」

「いいです、ムリよ、私、重すぎるもの」

香織は後ずさりした。

「軽いもんだよ。さっきの斜面を、かつぎ上げたことを思ったら」

やだ、そうだったの! 若木がしなって、斜面を落ちたのだ、私! 結城君 の背やジーンズの土は、私のせいだったのだ。お礼も言わないで、と思ったのに、言えないうちに、急き立てられた。

「さあ早く、君のスピードでは、見晴台の休憩時間にとても間に合わない。来いよっ」

強く促されて、香織はリュックを背負ったまま、結城君の背につかまった。がっちりした肩だった。彼がゆらりと立ち上がると、地面がずっと下になった。

ふと見ると、さっき滑り落ちた斜面に、えぐれた土が太く残っていた。7mばかり下に、がっちりした木が張り出していて、そこまで筋は続いている、その下は、更に急な斜面が長く落ち込んでいた。
香織はぞっとして、目まいがしそうだった。目をつぶって、結城君の背に 顔をうずめた。

「ありがと」

小さく香織はつぶやいた。あそこまで下りて、結城君は香織をかつぎ上げてくれたのだ。命の恩人だ、と香織はその時、心に深くそう思った。

結城君は聞こえなかったのか、大またに、かなりのスピードで突き進んだ。さいわい峠の平坦な道が続いている。

「らくちんだろう」

声が香織の胸からお腹にひびいて、くすぐったい。クフッ、思わず笑ってしまった。

「とんだペアだ、ちっくしょう!」

結城君は荒い息といっしょに毒づいた。

香織はクスクス笑った。以前の結城君に戻ったみたいだ。

「おせわばっかかけて、ごめんなさい。それから、ひどいこと言っちゃって、ほんとにごめんなさい」

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