B・ドハティ自伝抄訳 (2)
●30代初めのある日、物売りに来たウエールズのジプシーが、私に「作家になるべきだった人」と予言した。レースを少し買ってあげて、ちょうど縫いかけていた舞台衣装の飾りに使った。今思えば、予言は間違っていて、その writing lady=作家とは、子ども時代の私の夢のことだった。
実際に書くようになったのは、予言されてから6年後のことだ。その頃までには、町の中心部に近い大家族用の家に引っ越していた。
●末娘のサリーが5歳になり、学校へ行き始める頃 (私、33歳)、夫との結婚生活が終り、別居となった。地下室に拡声装置を備えていたが、以後15年間、二度と歌うことはなかった。
●独立した職業に就きたく、1978(35)シェフィールド大学に戻って教職資格を取り、中高学校に職を得、2年近くを乗り切った。ゲーリーはその頃の最大の支援者ではあったが、同居は拒まれ、以後、私の最悪の10年間となった。カウンセリングを何ヶ月も受けた。同じような辛い状況に陥っている人たちに深く同情する。私は作家になることで、苦境から抜け出すことができたが・・。
現在は新しいパートナー、アラン ・ブラウンと、音楽、歩くこと、書くことがそろって大好きで、ほとんどの時間を共に過している。
●もう一度女学校時代の20年前に戻って、もうひとりの〈英語の教師〉マーチン先生が、どれほど私の生涯に影響を与えてくれたかを語りたい。
彼女はなぜか内向的で恥ずかしがりの私に、強い関心を寄せてくれた。ある日、私がこの女学校で困るのは、書物が少ないことだと先生に話した。ガラスの扉の中に本はたくさんあるのだが、どれも100年以上経った古い本ばかりで、ある聖者の生涯について書かれたものだった。
マーチン先生は私を自宅の書庫へ連れて行ってくれた。そこにはずらりと本物の、今使われ生きている本が積み重ねられていた。何度も読まれページをめくられて、シミで汚れた本だった。先生は運べるだけ持って帰っていい、読み終わったら、もっと借りにくればいいと言ってくれた。
私は劇作家の作品を選んだ。オー・ケイシー、シング、バーナード・ショーを借りて・・。劇など一度も見たことはなかったのに。
この先生は、この世の誰よりも、私に大学で英語学の学位を取るよう励ましてくれた人だが、家では耳にしたこともない分野だった。兄は勉強して英国空軍飛行士になったのだから、頭のいい人だったろう。姉はちょうど進学の時期に、学校が戦時の爆撃で焼け落ちてしまい、働きに出るほかなく、才能を埋もれさせてしまった。
私は勇気をふるって、家族に打ち明けた、六学年に残って、大学受験に備えたい、と。父は先生が大学を勧めてくれたことを、誇らしく思ってくれたが、母は女の子に教育はムダという考えだった。
私は演劇を学びに、マンチェスターに行きたかった。その頃は劇作家になりたいと思っていたが、先生には言い出せなかった。先生はオックスフォードか、ダラム大学を薦めてくれた。ダラムを訪ねてみて、小さいが美しい街とわかり、美しい川、橋、丘、城、大聖堂に魅了されて、ここに決めた。
こうして英国で最も古く、伝統ある大学で学ぶことになり、すべての時間を楽しんだが、自分のやりたいこと、書くことはまだやってはいなかった。
●実際に書くようになったのは、ジプシーの予言をうけてから6年後のこと、偶然から始まった。ゲーリーとの二重唱を組んでいた The Woodlanders を解散して、別居し、末のサリーの学校が始まっていた。
子どもたちが学校にいっている間の仕事を得たいが、私には教師しか思いつかなかった。そこで前にも述べたように、教職資格を得るため、シェフィールド大学に1年間学士入学した。この時「創作授業」があることに興味を惹かれ、受講した。
その授業で、「1500語の物語を書け。主題は〈黒と白〉」という課題に、女学校の修道女たちを思い出して、1978(35)”Requiem”という短編を書いた。修道女が習慣として着ている服の色は、彼らの教えの哲学を反映していると思えた・・・善と悪、罪と犠牲、罰とほうび、地獄と天国を。
この女学校で、私に歌うことを教えてくれた、修道女の死についての短編だった。私は3つの大学の授業で、多くのエッセイを書いてきたが、私には、この話が他のなにより大事な意味をもっていた。自分が夢の中にいるような、子どもの頃に書いていたようなやり方で書いた。構成もどんな言葉で書こうかなど考えもせず、すでに存在していて、ただ書き下ろされるのを待っていたものを、書いただけのような感じがした。
まるで、それを書くことで、自分の中の何かがカギを開けられた感じ、そしてそれは感情的な真実であった。その話は精神的な障壁を、乗り越えることについての物語だ。同時に私にとって大切なことは、それを書いていたときに感じた喜びだった。まるで、私の内面の秘密の部分に触れているようだった。私は Requiem (鎮魂・挽歌) と名づけた。それは私の人生の一部分を休ませるために、そのまま置いておき、新たな平安を見つけるためのひとつの方法であった。
[★訳註:バーリーが、女学校にいる頃の、カトリックに対する不審や疑問、自殺した先生や修道女などを思いながら、大学でカトリックとは真逆の考え方を知って衝撃を受け、次第にカトリックから離れて行った気持ちの変化を辿る最初の短編だったと思われる]
この物語は12年後に、成人向けの小説となるが、それ以前に、非常に多くの出来事が起こった。
●担当教師がこの作品をほめ、これを売るように勧めてくれた。友人や脚本家に見せると、これを引き出しにしまっておくな、と言われたが、どこに送っていいかわからなかった。ふと思いついたのは、地域のラジオ局が時々、物語を放送することだった。持ち込むと、プロデューサーのデイヴ・シェスビーが8ポンドで買ってくれた。私の全作家歴の中で、最初の作品が売れたという手紙を受け取った時の喜びは、その後、放映されたり、舞台劇となったり、二度のカーネギー賞受賞した時よりも、はるかにはるかに大きなものだった。
デイブ・シェスビーには、はかりしれない恩がある。彼自身が作家で、新人を励ます方面でも大変な力になっていた。彼があの時受け入れくれなかったら、その後、どこかに送る気力が、私にあっただろうか。
デイヴにシリーズで10作書きたいか、と問われ、私は夢かと思い、信じられなかった。興奮と共に書けそうもない思いが強かったが、書きます、と答えた。いったい私に、あと9作も書けるだろうか? ともかく、ためらいながらもなんとかやり抜いた。自信が無いので、一作できると、彼に届け、受け取ってもらえると、やっと次の作品にとりかかれる勇気が出た。
子どもが寝静まってから、どの作品も夜遅くに書いた。当時は多くの時間、私はひとりでいたが、私にはそれが必要だった。暖炉にマキを入れ、そのマキが燃え尽きるまで書いた。私の特別な時間だった。
この時、教職を再開していたけれど、短期間で終ることになった。結婚の崩壊と教職のストレスに耐えきれず、退職しかかっていた。
デイヴにはもっと若い子ども向けに、さらに10編を頼まれた。書きます、とまた私は答えたが、前よりもっと自信はなかった。最初の10編は10代後半向けだったし、自分の得意分野は、10代後半だと思っていたからだ。
私は考えに考えて、作家が秘密の庭へのドアを開ける作品を、若い子どもたちに書いてやれるとしたら、彼らが一番見つけたいのは「自分自身」か、あるいは「自分にとてもよく似た誰か」のやったことや、チャンスがあればやるだろうことではないか。
私が10~12歳頃に大問題であった〈同じ街の他の子と違う服〉〈他の少女たちと違う言葉〉〈その両者から笑われる自分〉を書けば、すべての子どもたちにとって、大切な問題であることに触れるだろう。私自身に別名を与え、別人の目を通して、自分自身をみつめた。
自分の記憶を元に、取りつかれたように毎晩書き続けた。物語のどれひとつも私のことではないが、しかしすべてが私のことだった。