(私のエピソード集・4) ストーム騒ぎ
大学二年の秋の宵のこと。「東大三鷹の寮生、ストームに来たりー!」の男性の声が、窓の下から聞こえた。西寮の二階の窓辺に頬杖ついて、満月を眺めていた私は、はっとした。目の下の通路に黒い姿が10人余り見えた。
叫び終わると同時に、ドンガラガッチャーン、カーンと、すさまじい音! 身を乗り出して見ると、手に手に持った、ナベの蓋や、ヤカン、バケツなどを、棒だかすりこぎだかで、叩き鳴らしているのだった。
わあ、ストームだ! 日本にもあったんだ! と私はわくわくした。すぐに首をひっこめて、窓の内側から、なりゆきを見物することにした。
ストームについては、その頃の新聞で、目にしたことがあった。アメリカの寮生たちの、男子が女子の寮をおそって、ふざけたり怖がらせたり、両者で学園生活を楽しんでいるようすが、ニュースというより、こぼれ話のように書かれていた。
三鷹寮生たちは、西寮の周囲を、行ったり来たり走り回って、一階の窓をコンコン叩いたり、声をかけたり、ナベを鳴らしたり、実に忙しげに、楽しそうでもあった。二階の窓から、誰かが何かを投げた人もあったが、私はただ面白がって見ていた。
ところが、一階の週番室あたりでは、大変な事態になっていたらしい。最初の「ストーム宣言」を誰も聞いていなかったらしく、あれは何? ならず者? それとも、右翼が襲ってきたんじゃないの?
その年の6月までは。安保条約反対の気運が、寮をも揺るがしていて、かなりの寮生が、国会前の路上泊をしていたのだから、気を回したくなるのもムリはなかった。
大体、夜に男集団が騒ぎに来るなんて、警察を呼びましょ、と大騒ぎになり、役員たちが本当に110番したのだ。
やがてウーウーウーと、無粋なサイレンを響かせて、学内に警官隊が駆けこんできた。学生たちは月明かりの中を、いっせいに散らばって、逃げて行った。その後から、寮の地下に常駐している用務員が、「女子寮にだって、男はいるんだぞー」と叫びながら、追っかけて行ったのには、驚きながらも笑ってしまった。
一階に下りて見ると、寮監先生を中心に、皆が疑心暗鬼になっていたので、私は窓から聞こえた「三鷹の学生ストーム宣言」の話をした。なあんだ、そうだったの、で収まったが、なんとなく後味悪い思いが残った。
その後、寮監先生に、警察から報告があったそうで、三鷹の学生たちは、全員つかまり、始末書を書かされ、ナベ、カマ、ヤカンなどすべて、没収されたそうだ。そんな大ごとではなかったのに、単なるお遊びだったのに、あの人たち、お気の毒に、と私は思っていた。
20数年後に、私は『あじさい寮物語3巻』を書き、2巻目の『窓べの少女』の中に、すこし話をふくらませて、この話を入れておいた。
すると、それから10数年後、思いがけない後日談が生まれた。私が50代のその頃、恵泉女学園短大で児童文学を担当していたが、当時の学長が、私のこの本を面白がり、東大三鷹寮出身の、学部長にも読ませたらしい。
ある日、知らない男性から電話があり、その人は短大の同僚だと名乗り、私が女子大を卒業後に、三鷹寮生となった、4歳年下の方だとわかった。
「実は、僕も女子大の寮に、ストームに行かされたんですよ」と、彼は言った。入寮後に「三鷹の寮生は、東京女子大の寮に、毎年ストームをかけることになっている!」と上級生に宣告され、本当に実行させられたのだとか。
察するに、初代の上級生たちは、警察に始末書を書かされ、道具没収されたことなど、馬耳東風、屁とも思わなかったらしく、後輩への伝統のひとつにして、受け継がせていた、その心意気に感嘆してしまい、電話越しに、学部長と大笑いしあったのだった。
学部長が学生の頃には、もちろん警察に、訴えられることもなかったそうだ。その伝統が、いつまで続けられていたのかは、二人共に知る由もないのだが・・。