2章-(9) 高田先生と若杉先生
瀬川班長はさらにこう続けた。
「笹野さんは間違えたな、とすぐわかったのだけど、せっかく英会話を勉強できるチャンスを失うのは惜しい気がして、黙っていたの。結城さんも同じだったと思うわ。あなたは最後に入学が決まった人だそうだから、会話にしても英語でも、勉強はうんと必要でしょ」
香織は真っ赤になった。ビリで入ったことは、やっぱり瀬川さんにまで知られていた。それに、その程度の英語だ、と言った結城君の笑う感じがよみがえってきて、恥ずかしさと屈辱感でうちのめされる思いがした。
でも、若杉先生は言ってた、いじけるのはサイテイだ、って。そう、いじけてなんかいられない。ポールと会話の勉強なんだから、出かけて行くわ。 もうひとりは無視、無視。
英語はなんとかなりそうだったが、香織は数学の時間にがっくりしてしまった。その夜、頭を抱えている香織に、直子に何困ってるのよ、と訊かれた。
「数学の高田先生がね、明日までにこの数式を丸ごと覚えてこい。全員立たせて、ちゃんと言えた者から座らせる。とにかくこれだけは、丸覚えして こい、だって」
「ああ、あのビシバシってあだ名の高田先生かあ。どんな数式なの?」
「サイン30度=2分の1,コサイン30度=2分のルート3、って言うの。意味さっぱりわかんない」
「ああ、それね。三角比の定義っていうの。予備校で習ったよ。図を書いてあげるね:
サインθ=高さ/斜辺; コサインθ=底辺/斜辺: タンジェントθ=高さ/底辺 という決まりがあるの。θというのは、角度の大きさのことだけど、直角三角形を半分にすると、1番せまい角度は30度でしょ。高さ=1とすると、斜辺=2だから、きまりに当てはめると〈サイン30度=2分の1〉となるの。コサインは底辺=ルート3で、斜辺=2だから、〈コサイン30度=2分の√3〉となるの」
図の説明をしてくれた後で、直子はビシバシ高田先生の話をしてくれた。
「東大の医学部に現役で通った人が、2年生の時にね、高田先生が課題を 3回忘れた人に、1週間黄色いリボンをつけさせたの。その人のルーム メイトがリボンつけられたので、ルームメイトを助けるために、クラス全員で黄色いリボンをつけて、高田先生を迎えたら、先生がカンカンに怒って、授業ストップが続いたんですって」 [註『あじさい寮物語 (2)]
香織は思わず口走った。
「その東大医学部の人、マスミさんだ! ルームメイトはユキさんだわ」
「ええっ、どうしてオリが、名前を知ってるのよ」
「寮監先生に初めて呼ばれた入寮の日に、話してくれたの。そのふたりが 1年の入寮の時、私たちのこのへやに入ってたそうで、忘れられない人たちだったって」
「へえ、感激! その人たち、このへやだったの? もっとくわしく話して」
「また今度ね、少しずつなら話せるけど、今夜は数学の予習しないと・・」
直子は知りたがったが、先生の長い長い話をまとめて話すのは、香織には 億劫で、 先延ばしすることにして、それ以上の話は胸に納めておいた。
月曜の昼休みは、若杉先生に勉強の成果を報告に行く日だった。
テキストを読むだけの予習は、どの科目も目を通したが、付属の問題集の 解答は手つかずのままだった。英語だけは復習予習が続いて、少しずつやりがいを感じていた。
香織が職員室へ行くと、戸口の前の廊下に人だかりがしていた。
「先生、好きな色は?」
「色? そうだなあ、山にある色だな。ブルー、グリーン、白、茶色、赤・・何でも自然の色はいいよ」
その声は若杉先生だった。2年生たちの8人ほどが質問攻めしているところだった。
・誕生日は5月21日。
・タバコは吸うが、酒は1滴もだめ。
・甘い物好きで、おはぎを10個食べたことある。
・おばあさん育ちで、植木と相撲が好き。
・口笛と習字が得意。
先生が答えるたびに、わっと笑いがわいた。香織もふうん、そうなんだ、と聞こえてくる情報に、おもわず緊張がなごんでいた。誕生日が21日には、ちょっと親近感がわいた。香織は11月の21日だったから。日にちだけは同じだ、と。
その時、ミス・ニコルが学園長室から職員室へやって来た。
「たのしそですね、みなさん。 オウ、ハウアーユー、ミス・ササノ?」
香織は突然声をかけられ、ビクッとして、返事をしそこねた。ミス・ニコルは返事を待たず、笑顔を崩さず、そのまま職員室に消えた。
「おう、笹野、来てたのか。どうだ、予定通りいったか?」
先生が2年生たちをかきわけて、香織の目の前に現れた。2年生たちの視線がいっせいに、香織に向けられた。香織はひたいの巻き毛の際まで真っ赤になった。