B・ドハテイとの文通
Berlie とは、18年前に質問状を送ったことから、手紙のやり取りは始まっていた。そもそもの始まりは、2003年に 授業のテキストに The Snake Stone を選び、読み進めていたところ、偶然 翻訳本『蛇の谷 秘密の谷』を見つけて、本文と照らし合わせてみると、数カ所、見過ごせない部分があり、それを確かめるためだった。
特に、次の箇所は指摘しておきたい。
(1)p.85:7-9 They might just have heard on the news about a boy who'd gone missing. [Harper Collins Publishers ISBN: 0 00 6740227 ]
私訳:ユースホステルまで、僕を車に乗せてくれているこの人たちは、(カーラジオで) 行方不明になっている男の子 (つまり僕、ジェイムズのこと) のニュースを、聞いたばかりなのかもしれなかった。
● 訳書では「行方不明になった男の赤ん坊の噂をきいてるかもしれないんだから」となっている。
★養父母たちがひょっとして自分の嘘に気づき、ロンドンにいる高飛び込み指導者、ケンの「高飛び込み特別訓練」に行っていないことが、バレてしまって、警察に行方不明として届けたのでは、とジェイムズがここでそう思ってしまい、ハラハラする場面だ。
「行方不明の男の赤ん坊の噂」は、15年前のことであり、エリザベス以外に知る人は、小鳥にパンをまいていた女性しかなく、カーラジオのニュースに出ることなどは、あり得ない、と私は思い、まずこのことから確認したかったのだ。
◆バーリーは、どうしてこんな基本的なことを、間違えるのかしら、と驚いた返事を送ってくれた。
(2) p.85:12-13 The youth hostel. I swallowed hard, and let my head roll back.
私訳: ユースホステルか。ぼくは唾をごくりとのみこんだ、そして以前のことを思い出した。 *roll back = (時) が過去に逆戻りする、という熟語。
● 訳書では「頭をのけぞらした」
★ジェイムズは雨に降られ、野宿はできず、困り果てている時に、車に乗せてくれた夫妻に、"Oh, from the youth hostel, are you?" と、ユースホステルから散歩に出ていたところ、と勘違いされる。 彼は以前、何度かユースホステルに泊まったことがあって、そこへ行けば、食事や入浴ができ、泊まれることを改めて思い出し、ユースホステルへ行こうと決心する場面。
(3)p.74:12-13 She's bony and fidgety and smoke pipes out of her mouth when she talks.
私訳: ケンの奥さんのベティは、ガリガリにやせていて、せっかちで、しゃべる時はつばをものすごく飛ばす人だ。
● 訳書では 「しゃべるたびに、口から煙が出るほどのヘビースモーカーだった」
(4)p.86:13-14 Thank you for everything. James Alexander Bell.
私訳:何もかもありがたいよ。これがジェイムズ流 電話活用法さ。
● 訳書では 「ありがとう、電話を発明してくれたベルさん」
◆ この部分について、バーリーは deliberate joke (よく考えたジョーク) だと、返事をくれた。アメリカ版の The Snake Stone では、James が Alexander に変えられていて、アメリカの編集者にも misfired (ジョークが不発・通じなかった) と、バーリーからの手紙にあった。Alexander Graham Bell を、バーリーは James Alexander Bell と変えたのだが・・。
この質問状が縁となって、10年後に、私が八王子の中央図書館で「イギリス児童文学を原書で楽しむ会 = OE会 = 老いてもいい会」を始めて後にも、バーリーの作品を2冊取り上げ、今度はメールでの文通となった。(ここからは、プロフィールの中でも少し触れているが、もう少し詳しく記すことにする)
2017年秋に、「あなたは結婚していますか?」と問われ、私は自己紹介を何もしていなかったと気づき、男女の双子と次男の3人の子どもがいて、孫が8人いると返事をした。
すると、バーリーは双方に、共通点が多いことに、驚きと喜びのメールを返してくれた。
1)年齢が似通っていて、彼女の方が4歳年下だったこと。
2)彼女の娘も双子を産んだこと。
3)孫が同じくらいいること。
4)どちらも著作を出していること(これは、あまりにも力の差がありすぎて、私は writer というより teacher で、著作は趣味だった、と答えたが)
出版された本のことを知らせると、私の北朝鮮からの引き揚げの話を、ぜひ読みたい、英訳して、と請われたのだった。本音を言えば、自由作文は好きだが、和文英訳と会話は、苦手な私としては、自分で書いた248ページの日本語の英訳というのは、実に荷の重い作業に思えた。
でもバーリーには、質問攻めの手紙ばかり送ってきたことへの、恩返ししなくては、との思いもあり、意を決してとりかかったのだった。が、始めて見ると、意外に面白くなって、1章があっという間に仕上がり、早速送ると、べたぼめの返事が届き、すぐに次の章へと、1章ずつ送り続けた。次が読みたい、面白いと言い続けてくれて力づけられ、短い間に最後まで訳せた。
多忙な彼女が6ヶ月かけてすべてを読み終えた時、この感動を本に、とイギリスでの出版を勧められ、彼女の担当のエージェントを紹介してくれた。けれども、いろいろと私の手にあまる面倒が多いのと、引っ込み思案の私の性格もあって、諦めてしまい、東京で200冊自費出版した。それが 1945, Surviving the Winter in Chinnampo だった。
この本をアメリカに7歳の時から移り住んでいる甥に送ったところ、亡き母(れい子) の11~12歳の頃がわかって嬉しいとメールのやり取りが続き、この甥が米国議会図書館の担当部門のメールアドレスを調べて知らせてくれた。思い切ってメールしてみると、翌朝に「ぜひ送って下さい」という日本人女性の担当者からのメールをもらったのだった。
2019年9月に幻冬舎から出た英訳本は、今年2021年7月末に、同舎から電子書籍版として、出ることになった。日本語版の方は、中学生向けに書き直して、佼成出版社から、来年2022年6月に出版される予定になっている。 私が60年近く取り組んだことになる作品が、最後の形になろうとしているのは、嬉しいことだが、欲を言えば、2012年の原版のままを再版できたら、と思わずにはいられない。
バーリーとのメールは、ここ20日間に「俳句」について、何度も行き交ったので、次はそのことに触れようと思っている。