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(私のエピソード集・11) 無知な親に双子誕生

20代半ば、赤ちゃんができたらしいとわかった日「思い切り遊ぼう!」と宣言して、ドッジボール、なわとび、ゴムとび、鬼ごっこと、アパートの子どもたちと、暗くなるまで跳びまわった。高校の勤め先から帰ると、夕方のひとときを、いつも彼らと遊んでいたが、今日でお終い、と決めて・・。

その夜、おなかが痛くなり、不安な感じになったので、バスで2駅の小さな産院へ、夫につきそわれて行った。流産しそうだと、N 医師に脅された。妊娠初期が大事なのに、跳んだりはねたりとは何事か、と。

背伸びすること、激辛のものを食べること、そんなことさえ危険だと知り、びっくりだった。母親学級には行く暇がなく、何も勉強していなかった。

乗り物のことは注意されなかったので、春に申し込んであった夫の大学の教職員旅行に参加して、夏休みの初めに、磐梯山のふもとに二人で出かけてしまった。

列車やバスで揺れたせいか、出血が始まってしまい、駆けこんだ旅先の産院の医師に、ボロクソに叱られた。注射をされ「これが効かなければ、あきらめるんだな」と・・。教員なのに二人そろって、若さの無謀と、もの知らずに、その医師は舌打ちしたほど、あきれ果てた様子だった。私は深く深く恥じ入った。

やっと家まで帰り着いてからは、床にふせったまま、夏休みを過ごすことになった。

当時、英語の文法とリーダーの両方で、赤点を取った女生徒が、夏休み中、私宅に補習に来る約束になっていた。その子がアパートの広場に現れると、子どもたちがバタバタと駆けてきて、開け放した部屋のドアから「おねえちゃんが来たよ」と知らせてくれる。私は寝たままで、夏休みが終わるまでお相手をした。

それでもなんとか無事8ヶ月末までもって、1月末日、産休の挨拶に担当クラスをまわった。その時、もらった激励の色紙の中に、ただひとり「先生のおなかは大きいから、双子かな?」とあるのが目に留まった。

産院の医師にそんなことは言われなかったし、私が双子を産むなんて、思ってもみなかったので、笑ってしまい、ふざけてこう返した。
「名前はK太郎と決めてるけど、K太郎とK次郎にしようかな。女の子なら若芽と落芽にしようかな」と。クラス中が大さわぎになった。落芽はかわいそう、若菜がいい、若沙がいい、と湧きかえった。

その日の帰りに、同僚たちがバイキングに、吉祥寺から新宿へ連れて行ってくれた。

その夜は、新宿に近い赤坂の、姉の一家宅に泊めてもらったのだが、夜中におなかの痛みが始まった。それも一時間以上の、間をおいて痛くなる。姉に言うと、それは陣痛かもしれない。大きなおなかで、出歩いたのがひびいたのかも、と言われた。

妊娠は初期だけでなく、後期の早産にも注意が必要と、これも初めて知った。何しろ母親学級には、一度も行くチャンスがなかったのだ。

朝を待って、深大寺のアパートから、夫に迎えに来てもらい、つきそわれてN 医師を訪ねると、ちょうど9ヶ月目の検診日でもあった。診察すると、医師は大あわてで、「このまま入院だ。すぐにも生まれるぞ。僕が計算をまちがえたかな?」と言った。腹囲をはかると、10ヶ月の大きさだという。

私もあわてた。なんにも準備をしていなかった。予定日までに2ヶ月ある。その間に、おむつ、肌着、毛糸のおくるみ、帽子、くつしたなど、順に手作りすればいい、と心づもりしていたのだ。仕方がない、夫に頼んで、買ってきてもらうことにした。

その日の夜中に、いよいよ産まれたとたん、医師が仰天の声を上げた。  「あれ、双子か、小さすぎる!」そして私のおなかに触れると「いや、三つ子か? あとふたつかたまりがある!」と。

N 医師は50代だったが、一度も双子を扱ったことがないのだとか。そのあわてぶりは、私まで不安になるほどだった。

ふたり目は逆子で、仮死状態で生まれ、医師が振りまわしたり、体をたたいたりして、やっとか細い声で泣き声を上げた。残りひとつのかたまりは、大きな胎盤だったとか。こうして私は、1600と1700グラムの未熟児の双子を得た。

その時の私の血圧が、90ー50だったため、「お産で、こんなに低いのは、初めてだ!」と、医師はまたまた動転して、大出血になると危ないと、さらし布で、私のおなかをぐるぐる巻きにして、備えてくれた。

私の枕元では、富士宮から来てくれた夫の姉が、せっせとおむつを、160枚縫い続けてくれていた。未熟児はガラス箱に入れるため、翌日には、深大寺から中野の産院に、運ばれることになり、おむつがひとり当て80枚ずつ必要だった。紙おむつなどはない時代だもの、古い浴衣地や、さらし木綿で作ってくれた。

翌日から夫は、大学への行き帰り、ボストンバッグに、おむつを詰めて通い、私は母乳を止めるよう、医師に言われて、胸に氷袋を当てて、冷やし続けた。当時は母乳よりミルクが推奨されていて、母乳を冷凍して、子に届けるなど考えもしなかったのだ。

2500グラムで戻ってくるまでに、2ヶ月と10日もかかった。あれから数十年、おろかな親の無知と、非常識にもめげず、無事に育ち、人並みに家庭を持てた、わが双子の生命力と幸運に、感謝しないではいられない。(今、これを書きながら、恥ずかしくて、顔も上げられない!)

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