5章 (1) 1月 腐ったミカン対応
家に帰りついて、東京暮らしと学校が始まっても、歩きながら涙をこぼしたりしてたけど、やっと落ちついてきました。父が高校で、生徒や教員との対応をどんな風にしていたかを、同僚の教員で、寺の住職の人が、初七日の〈法事〉の時に、父について話してくれたのです。
父は倉敷工業高校(=倉工)を定年退職後、岡山にある私立の理科大に勤めたの。その男子校は、県立高受験に落ちた子や、落ちこぼれをたくさん引き受けていたので、非行少年や成績不良生徒を、切り捨てる問題が、職員会議でよく起こっていたそうなの。若い先生は「ミカン箱にひとつ腐ったミカンが出ると、それは捨てなくては、他のミカンもだめになる」という論法で、切り捨てようとするが、そんな時に、父が最後まで絶対に頑張るんだって。
「最初から成績の悪いのは覚悟で引き受けたはずだ。いわば、みんな腐ったミカンかもしれない。それなら、粘り強く、最後まで面倒を見て、ほんの少しでも教わって卒業していけば、それで充分ではないか」って。
そのせいで、76歳まで大事な役を持たされていたらしいの。私はその話を訊いて、心慰められ、父を誇りに思う気持ちを強められました。
この話や、そのお坊さんに、私が質問した「イエスとお釈迦様の違い」に どう答えてくれたかを、私の受け持つ5つのクラスで話したら、生徒たちが熱心に聞いてくれて、授業の受け方が違うの。廊下を歩いてると、センセ!と何人も呼びかけてくれるしね。毎年何人かずつ、そういう子がいるのだけど、今年はよけいに胸に響きます。有り難い大きな慰めです。
帰り着いた16日は、大工が新築の家の図面を持ちこみ、皆でまた頭をそろえて、ああでもない、こうでもないとやり直して、みえ子、すぐに引越し先を決めてきてくれ、なんて注文されて、翌日の日曜日から、探し回ったわ。あちこち〈建築ラッシュ〉らしく、探すのはほんとに難しかったけど、ごく近くの1軒で、私が娘さんと息子さんを、うちの塾で教えたことのある家があって、その家が隣に新しく建てた家に、移ったところだったので、〈6畳ふた間に、板の間6畳〉の狭さだけど、うちの6人のうち、5人がそこへ移り、長男だけ、元の家の物置に住むことにしました。
アヒルが2羽と、雑種犬のグルメがいるので、近くの家に引っ越せるのは、ラッキーでした。早くもダンボール箱集め作戦を始めていて、こういう雑事で、父を失った悲しみが薄れていけるのかもしれません。
あなたがノートに書いてくれた「親を見送るのは、親孝行の総仕上げ。つれあいを亡くすのは、半分、自分も死ぬようなものよ」と言う言葉に、ドッキリしました。あなたの悲しみはそれほどに深かったのね。
それに続いて書いてあった「母が亡くなって今年で20年、懐かしいけど、もう悲しくはないわ。父が亡くなってから50年。それに比べて、あなたはなんとなんと永く親孝行できたの? 羨ましいわ」 ほんとにそうだね、そう言えるわ。自分が生きて、父や母を見取ることは、親孝行なのね。
私が「新しく家を建てるために、いっぺんにやろうとするけど、しないでね」と注意してくれた後で、「ひまわりの山本さんは、暮れに1日でカーテンを54枚洗って、のびちゃったのよ」というところで、驚いたあまり、吹き出しちゃった。わかりました。いっぺんにやらないことにするわ。たしかに、わたしって、山本さん的だから・・。のびないように、本だけで100箱くらいになりそう、少しずつ箱に詰めて、檜原の山小屋へ運ぶつもり。
でも、山本さん宅には、どうして54枚もカーテンがあるんだろう? 信じがたい数字だわ!