あいまいな生き物のほね2
あいまいな生き物のほね のつづき
その日は家を出るまではひどく寒かったのに、最寄り駅につくころには汗をかいていた。
僕はあまり電車の時間を調べて家を出ることがない。それでもその日は幸運なことにホームに下りるとすぐに電車が来た。乗り込むと今度は冷房が効きすぎていて身体が一気に冷えて、この世のどこにも「ちょうどいい」が存在しないような気持ちになった。
正面口改札を出てからの道のりは意外なほどスルスルと行った。僕は道や景色を覚えるのが苦手なのでその順調さに驚いた。古民家やミニチュアのお城のような建物が並ぶ道を通り抜けて、緩やかな坂をのぼる。ここは、ニュアンスだけの街。
途中、ハリボテの運河の近くで何かの撮影をしていた。入り口には明らかにAD然とした細長い青年がつっ立っていてスマホをいじっている。ミーハー心とは無縁の人生でいつもだったら気にも留めないのに、その日はなんだか特別気になって無意味に入り口の前を行ったり来たりした。特に何も見えなかった。
着いた時点で開院時間までは十分あり、クリニックの前には列が出来ていた。普通のおじさんと普通のおばさんと、普通の女の子のうしろに僕も並んだ。僕の後に来たのは中性的な人で、開院後の受付で普通のおばさんの声が思ったより低かったりした。
その眼差しは多分、野次馬的な好奇心ではなく、仲間を求める心だった。彼らの中に自分と似たものを探している。どこかへの帰属を諦めながら、まだ、この手探りで進む道のりを一緒に行く仲間が欲しいと思っている。
周囲に無関心のフリをしながらカミュの『異邦人』を読んで待った。その待合室で『異邦人』を読むというのは何かのメタファーのようで少しおかしくなった。
間もなくして診察室に呼ばれた。今回の自分史は小学校入学まで。そんな昔のことを覚えているわけがないと思ったけれど、いざ思い返して書き始めたらA4一枚分くらいは書けた。「家族以外の人間がみんな怖かった」「親の友人の家に連れていかれると机の下から出られなかった」「幼稚園に行くのが怖かった」「外が怖くて母親の手を握っていないと歩けなかった」
僕はいろんなものが怖かったんだな、と他人事のように思った。
「幼稚園の時、持ち物をキャラクターグッズで揃えられるのが嫌でした。」
自分の話をするとき、頬にかたい痛みがあった。自分がひきつった笑いをしているのが分かった。僕は自分の話をするのが苦手で、そう言った瞬間から何か間違えたことを言ったような気持ちになった。
「でも、それは母自身が子供の時にそういうものを買ってもらえなかったから、自分がして欲しかったことを僕にしてくれただけなんです。」
なぜだか慌ててその場にはいない母親のことを庇っていた。僕は、そういうところがある。医者は、そうなんですね、とだけ言った。その表情が何かを察せられたようで心地が悪かった。父親のことも聞かれたがうまく答えられなくて誤魔化してしまった。
「次は、小学校低学年までをまとめてきてみてください。」
血液検査もします。と言われてその日の診察は終わった。初回のような吐きそうな緊張感はなかったがなんだか疲れていた。医者は、持ち物のことや幼稚園の時の遊び、友達について聞いた。それらに答えて語ったことは事実であるにも関わらず、本当に自分のことだという確信が持てなかった。
階段を下りて待合室に戻ると、そこにいた二、三人が僕をチラと見た。
帰り道、また件の撮影現場の前を通った。入り口から首を伸ばしてみた。モヒカン頭の中年男性が見えた。