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他人のナルシズムを笑うな

 話の導入は友人Kとの会話からにする。
僕「遠野遥ってイケメンじゃない?」
K「好みだな……なかくん(僕)に似てる。」
僕「つまり僕の顔が好みってこと?(照れ照れ)」
K「全く違う。」
僕「(…はて?)」
 つまりKが言いたかったのは、「好み(の問題)だな」であって、「自分はイケメンだと思わない」であった。僕の顔は好みではないらしい。Kは僕の写真をよく撮るので、てっきり「こいつは僕の顔が好き!」だと自惚れていた。違うのか。
 本論はそこではない。問題は、K曰く「遠野遥に似ている僕」が遠野遥を好きだということだ。(ちなみにこの好意に彼の作品というパラメーターは全く含まれていない。判断基準は顔のみであるということを強く言っておきたい。)

 自己愛がすぎるのか。そうだったら悲しい。そんなわけがないだろう、弁証させてください。冷たい水をください。水割りをください。できたら愛してください。ポルノグラフィティで堀江淳を挟むな。困ってらっしゃるだろうが。
 しかし通り雨を抜けてこの「似た者に惹かれる」という現象をもう少しよく考えたら、恋愛というものの根源的な原理を発見できるのではないか、と東京工業大学理学修士を持つ僕(ここで学歴をアッピールすることで議論に信憑性を持たせる)はふと思ったのである。そこで本記事では生物学、特に進化学の観点からこの「惹かれる」という現象及び恋愛とかいふものついてもう少し一般的に議論する。一般的に、というのは著者の個人的な主張にそれっぽい科学的根拠をつけてさも正しそうにする、ということである。忘れるな。


性欲よりも大事なうんこ

 一般的な恋愛論として「自分と違うから惹かれる」という通説がある。そしてこれは生物学的に「自分とは違う遺伝子をもつ個体と交配して子孫を作った方が遺伝的多様性がうまれ生存に優位」という理論によって後ろ盾されている。ここで気を付けて欲しいのはよく、こういう「生存・繁殖に優位」な性質を「本能」だとか「あらかじめ搭載されたプログラム」などという言葉で呼ぶ人がいるが、実際のところは「そういう性質を持った個体が子孫をよく残した結果、そういう性質を持つ個体が多くなった」というだけにすぎないということだ。子孫を残そうとすること、それに伴う性欲は生物としての本能ではない。ただ、性欲を強く持った個体が子孫を残し、セックス…?何それ…?とぽよぽよしてる個体はそのぽよぽよとした愛らしさだけを振りまいて死んでいったというだけの話だ。おいそこのぽよぽよしたお前、大丈夫だ、俺がお前を愛す。
 三大欲求は食欲、睡眠欲、性欲、とよく言われるが、実はもとは食欲、睡眠欲、排泄欲であったという話がある。考えてみれば、食欲と睡眠欲に性欲が並ぶのはおかしすぎるのだ。「誰もがもつ」というには個人差が大きく、「三大」というには生命維持に対する重要性が違いすぎる。セックスよりうんこする方が大事に決まってんだろ。お前ちゃんと毎日うんこ出てんのか。納豆がいいらしいぞ。

 話を戻す。たしかに、自分と違う遺伝子をもつ人と交配をした方が子孫繁栄に優位という点はある。たとえば遺伝子変異で出来た赤血球の一種として、鎌状赤血球というものがある。これは本来くぼんだ円盤状をしている赤血球が鎌のような細長い形をしているためにうまく酸素を運べないという遺伝子異常なのだが、その遺伝子を持つもの同士で交配したら四分の一の確率で子供は酸素がうまく運搬できずに死ぬ。ではなぜ鎌状赤血球遺伝子が残っているのかといえば、鎌状赤血球は酸素をうまく運べない一方で、マラリアに耐性があるという強みを持つからだ。このため親からそれぞれ鎌状赤血球と健常な赤血球をそれぞれ引き継いだ個体が最も生存に優位になるため、鎌状赤血球遺伝子は絶妙なバランスで保存され続ける。(ここでうまいたとえをさらっと言いたいが思いつかない顔)
 あとよく見るのは「せっかちさんと、のんびりさんだから私たちちょうどいいんだよね」とか「カリカリなポテトが好きな君としんなりしたポテトが好きな僕」とか。ちなみに僕は完全なインドア人間なのですが、休日にアウトドアで忙しい人を見ると「キモ…」としか思いません。
 たしかに、多少の違いがあった方がこのクソみたいな社会を乗り越えやすくなるのかもしれない。しかし「せっかちさんとのんびりさん」から中間種の子供が生まれてくるわけではないし、「カリカリポテトとしんなりポテト」の中間種ってなんだそれは。それらの形質の違いは「社会」を乗り切るためにいいタッグを組むものであって、すでに先の生物学的な見地とはもうだいぶ離れたものになっている。

自分と違うもの、に惹かれるのであれば人間は猿のままではないか

 そもそも自分と違うものに惹かれる、のであれば、生物多様性は生まれないのではないか?つまり生物の進化は起こらないのではないか?という疑問である。
 現在地球上には多様な種の生物がいる。もちろん最初からそんなにたくさんの生物がいたわけではなく(このあたりが進化学とキリスト教の折り合いの悪いところ)たとえば元は人間とチンパンジーが同じ祖先から枝分かれした、のように一つの共通祖先から分かれ分かれて、ここまで種が増えてきた。進化、というのは形質の変化にばかり目が行きがちだが、そもそもこの「種が分かれる」というところがポイントなのだ。世代を重ねて種が分かれ、それぞれに特異な形質を獲得していく。世代を重ねる必要があるのでデジモンは進化ではない。ご機嫌な蝶になってんじゃねえぞこら。ちなみにButterflyはキーを四つさげてオクターブ上で歌うと女性でも歌いやすいですよ。
 話を戻す。よく進化の説明で使われるキリン、「高いところの餌も食べられる個体が生き残った結果、首が長くなっていった」というのはたしかに、と思うのだが、いや待て待て、首の短いものはそんな急激に絶滅したのか?
 急にあそこまで首の長い個体が生まれたわけではないだろう。人間の「ちょっと身長が高い人」ぐらいの個体差として「ちょっと首が長いキリン」が生まれたとして、ちょっと長い個体同士が交配すれば、たしかにさらに長い個体が生まれて…と首は伸びていく。しかし、低いところの餌を食べている首の短い個体も同じように存在する時期があるはずで、(実際現存する生物の中でキリンと一番近いのはオカピなのだが)どうして首の短いものとちょっと長いものが交配して中間種ばかり、という事態にならないのか?確率論的に言っておかしくないか?なぜ種は分かれ、進化は一方向に向かうのか?
 もう一つ極端な例を出す。アフリカヴィクトリア湖に生息するシクリッドという魚がいる。「シクリッド」と一口に言っても細かく種が分かれており、それらはDNAレベルで言えばものすごく似ている。筆者は彼らの何MBもあるデータ量のDNAを解析して差異を探し、結局差異はありませんでした、と結論づけるという狂気の沙汰に修士二年間を捧げたわけだが、実際、彼らは人工的に交配させれば子供を作ることも出来るのである。にも関わらず、同じ水槽の中で混ぜられた彼らは同種同士でしか交配しない。同じ湖で、DNAレベルでものすごく近いにもかかわらず、同じ種同士でしか交配しない。
 この現象、一見不思議だがこの現象が実はキリンの話をリーズナブルにする。つまり「似たもの同士が惹かれる」ことが、種の分化、つまり生物の進化には必要だということだ。
 人間も中途半端な中間種ばかり生んでいないでインドアはインドア同士、アウトドアはアウトドア同士、交配して人間(in)と人間(out)へと分かれそれぞれ進化すべきではないのか?それが本当の意味での多様性では???と思うとき、少しマッドな笑みが浮かぶ。


夫婦は似てくると言うのは本当か

 これではただの陰謀論者になってしまうのでもう少し論証をする。
 例えばこんな話がある。映画『猿の惑星』の撮影中、撮影が始まるまでは休憩時間などは黒人は黒人同士、白人は白人同士でなんとなく固まっていた。しかし特殊メイクをして撮影が始まると、自然とオランウータン系、チンパンジー系など、見た目が近い者同士で固まるようになったらしい。
 また、「夫婦は似てくる」と言う。これはもともとは似ていなかったはずのものが長い時間を過ごすうちに似てくるという話なのだが、なんとなくミラーニューロンが関わっているのではないかと思う。ミラーニューロンというのは、人が目の前の人間の行動を観察している時、目の前の人間の行動を実際に自分が行う時にはたらく脳の部位が一緒に動く現象のことだ。長年一緒にいて相手の顔を見ていると、ミラーニューロンのおかげで同じ表情筋の動かし方をするようになってくるのではないだろうか。
 ここで興味深いのは長年連れ添った夫婦がお互いを見る時に脳が活性化する部位である。付き合いたてのカップル、が交際相手の写真を見ると報酬系といわれる部位が活発になる。ここが活発であればあるほど情熱的な恋愛、ということになる。それに対して長年連れ添った夫婦が互いの写真を見た時、報酬系に加えて中脳水道灰白質・縫線核と呼ばれる部位が活性化する。さてこの部位、他にいつ活性化するかというと、「母親が我が子を見つめる時」である。子!つまり最も自分に似た存在!!

その中脳なんとか…こそが人間なのでは?!


 人間には「自分と似たもの=仲間」に対して愛情がわくという仕組みがあるらしい。それは種が分かれてきたという事実からも明らかであるし、子供を見つめる時に活性化するというその中脳なんとか…ってのからも分かる。ではなぜその中脳なんとか…というのが必要なのか、というと、人間は子育てをしないといけないからだ。
 自然界では、子育てをする生物というのはたしかにいるが、少数派である。みんな生んだら生みっぱなし。挙げ句の果てには我が子も食う。我が子を食らうサトゥルヌス。この間読んだ小説で子育てをする部屋にあの絵を飾るというトチ狂った設定に笑ってしまった。そういうの好きです。
 で、彼らがなぜそうなのかといえば、それでも子が勝手に育つからだ。それに対して、生まれてきた人間の、未熟さよ!え、十ヶ月も腹にいてまだそんな完成度なの?!と驚くレベルで奴らは生まれてくる。僕もそうだけど。泣かせてあげて、お乳あげて、ゲップさせてあげて首もまだすわってねえのかよ。
 なぜ僕らがこんな未熟な存在として生まれてくるからといえば、かわいいからではない。むしろ逆。脳みそがでかくなりすぎてこれ以上腹の中で成長させたらもう出てこられなくなるからだ。つまり、脳みそが発達しすぎた、ゆえに、未熟で生まれてこざるを得なくなり、子育てが必要になり、そのためにはあのまだ猿みたいな奴らを「かわいい」と思わなければいけなくなった。中脳なんとか…がはたらくというのは、脳みそがでかくなったゆえの人間らしさと言える。

ナルシスズムを笑うな

 つまり、僕が自分と似ている(らしい)人間を好ましく思うのは、この中脳なんとか…がよくはたらくから、であり、それは非常に人間らしい脳みその使い方なのだ。自己愛とかナルシスト?馬鹿言ってもらっちゃ困りますよ。レベルが違うんだよ、脳みその。
 そしてこの非常に人間らしい脳みその使い方をした結果、僕はさらなる進化をとげ、新たな生物種になる…かもしれない。知らんけど。
 「自分と違うから惹かれる」がなんか正当で王道で素晴らしいみたいな昨今の傾向に僕は「ちがう!かもしれん!」と言いたい。自分と似ている人を好きになったっていい。それは生物学的に全くおかしいことではない。プラトン曰く、人は生まれてくる時に分かれた魂の半身を探して恋をする。それが全く違う性質のものとは限らない。むしろ半分に分けたなら、似ている可能性が高いではないか。ここでおすすめの双子BLを出したいのですが、双子BLであることが最大のネタバレになってしまう話なのでやめておきます。見つけたらご一報ください。
 恋愛をしなければいけないわけではない。ただ、人の魂はそれ一つでは完結しないように出来ていると思う。魂の半身を探せ。いかに退屈であろうとも、それの外に人生に花はないのです。