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山に人生を捧げた林業従事者の小屋の記憶

先日、「昭和林業私史-わが棲みあとを訪ねて-」(宇江敏勝著/農文協/1988年5月刊)を読みました。

書き手の宇江氏は1937年(昭和12年)に三重県で炭焼き職人の子として生まれ、高校卒業後ほどなくして炭焼きのために父親と一緒に山に入り、その後造林の仕事に従事しました。

この本は、生まれてから1975年ごろまでを過ごした炭焼き小屋や造林のために長期滞在した山小屋の跡を訪ねる形をとりながら、自分の半生と林業の変遷を辿る内容です。
私たちが山小屋というと、一般的に登山者が休憩や宿泊で利用するものを思い浮かべますが、ここでは山を仕事場とした人たちが長期滞在するために建てた、一時住まいの小屋を指しています。住んでいたのは男性だけでなく、幼い頃の著者のように家族ぐるみの場合もありましたし、造林の大掛かりな現場では炊事係の夫婦が一緒に住み込むこともあったようです。

著者による、当時の山小屋や生活形態にまつわる記述が興味深いので、そこから三つほど抜粋してみます。

まずは昭和26年、著者が14歳の頃を過ごした山小屋の跡を訪ねた際の記述です。小屋はとうに崩れていましたが、生活道具や日本が戦争に負け、占領下にあったことを物語る英語併記の酒瓶が草木に埋もれていたと言います。そんな中に、錆びたトタンも残っていました。

「私の父親は、それまで小屋をつくるのに、トタンや針金や釘など、工業製品はほとんど用いなかった。すべて林の中にある材料で小屋や窯をつくる技術を持っていたのである。
だが戦後も数年を経過したこの時代、山中の炭焼き小屋の屋根にも、ぼつぼつトタン板が登場するまでになっていたのである。それはたぶんどこかの古物を手に入れて、木の皮と併用する程度だったであろう。それはのちに近代的な工業製品が雪崩を打って入ってくることの前ぶれであった。」

「昭和林業私史-わが棲みあとを訪ねて-」(宇江敏勝著/農文協/1988年5月刊)

以前にトタンの歴史を調べたことがあるのですが、トタンが日本に最初に輸入されたのが1868(明治元)年のことです。国内でトタンの生産が始まったのは、1906(明治39)年に官営八幡製鉄所においてです。1923(大正12)年の関東大震災の記録映像には、被災者のバラック小屋に使われているのが映り込むほどに、トタンは都市部で普及していました。そして戦後、最初の輸入からおよそ80年かかって、紀伊半島の山小屋にまでトタンが行き渡ったことが、この文章から分かります。

次に昭和41年に建てた小屋についての記述です。

「山小屋といえば、それまでは掘っ立て小屋とか簡単なバラック住宅だったのが、ここで初めてプレハブ式を建てることになった。」

「昭和林業私史-わが棲みあとを訪ねて-」(宇江敏勝著/農文協/1988年5月刊)

ここでいうプレハブ式とは、かつて工事現場でよく見かけた切妻タイプの軽量組立式のものを指すと思われます。一つの現場が始まる前に資材をロープで吊って山中に運び込み、住み込む労働者自らが組み立てたのだそうです。

最後に、昭和17年、著者が5歳のときを回想しての記述です。これは小屋とは関係ありませんが、著者の一つ前までの世代が炭焼きとして、どのように山とともに生きてきたかを伝える貴重な証言です。
炭焼に適しているのはウバメガシなどの堅い樹木なのですが、それがどこに生えているのかを熟知している山びとは、一つの山で炭焼きの原料となる適度な樹齢の木を採取し終えると、次の山へと居を移すことを繰り返していました。そうした著者家族の中に死者が出た際のことを、こう書き記します。

「(山中を転々としながら暮らすため)定まった住まいを持たない私どもには、自分の墓所もなかった。〇〇(注:著者の兄弟の名前が書かれていますが略します。以下同)のなきがらは、四滝(注:炭焼き小屋近くの集落名)の人々の好意で、里の共同墓地の片隅をもらって埋葬された。おもえば一族の幾人かは、異郷の墓所に無縁仏となって眠っている。(中略)だが長兄の〇〇は(中略)、ガダルカナルで戦死して帰らなかった。他人の墓所であれ、肉親の手で葬られた者はまだしも幸せと言えよう。」

「昭和林業私史-わが棲みあとを訪ねて-」(宇江敏勝著/農文協/1988年5月刊)

現在ではちょっと想像もできないことですが、今から約80年前の紀伊半島には決まった場所に家を持たないだけでなく、一家の墓も持たずに山中を移動しながら暮らしていた人たちがいたことを、この記述は教えてくれます。著者の兄弟は山の麓の集落に埋葬されていますが、なかには人里の集落まで降ろすことも叶わずに、山中に埋葬された人たちもいたかもしれません。
ここで現代の私たちの生活様式に当てはめて勘違いをしてはいけないのは、著者家族や炭焼き職人たちが貧しかった訳ではないということです。先祖から受け継いだ炭焼きという職業においては、住み方働き方が昔からそうであったのです。戦前戦後に炭は大変に重宝されたので、生活は裕福な方だったと著者は回想しています。著者の父はその後、地方議員にもなっています。
ひょっとしたら、当時の方が今の私たちよりも仕事の幅は広く、生活の自由度も大きかったかもしれません。

昨年のことですが、和歌山県の山奥の集落で撮影をしていた際に、出会った人から「林業で働く人たちの山小屋はもう無いね。来るのが40年遅かったよ」と言われました。山小屋という言葉が今も地元の人の口をついて自然と出てくることから、この地での山と人との深いつながりを察することができます。

紀伊半島の山中で人生の大半を過ごした著者は若い頃から文学を志してきました。日中の仕事が終わり夕飯がすむと、山の中では仲間とお酒を飲むか騒ぐか寝るかぐらいしか時間の過ごし方はありません。そんな中で著者はときには本を読み文章を書き続けてきたそうです。そのおかげで、今はもう会うことも叶わない、山を住処として働いた人々とその住まいの様子を、私たちはこの本を通じて知ることができるのです。
戦後の日本林業の盛衰は教科書やニュースなどを通じて知ってはいます。しかし山に入って一本一本植樹した著者にしか書けない山や樹々への愛着と、現状それをどうすることもできない林業へのもどかしさも書かれています。もし興味がある方は手に取ってみてください。
(了)
2022.06.07


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