かわいそうを利用する
かわいそうだなんて言われたくないし思われたくないし、私は自分のことをかわいそうなんかじゃないと思っているけれど、恵まれていない部分もあるにはあって(もちろん恵まれている部分もそこそこあるのは自覚しているよ)、だからかわいそうといえばかわいそうなのかもしれない。
下手な同情や慰めは気持ち悪いし、それらを利用してるつもりもない。したくもない。
でも、私がかわいそうに見えるから優しくしてくれている人も多いんだろうな、と思う
特にnoteには、被害や苦痛、辛いこと、嫌なことをたくさん書いてきた。
誇張して書いてきたつもりはないけど、自分の目線でしかかけないし、自分の意見しか伝えなくて済む場所だから、必然的にそうなっている。
そして、ありがたいことに、それをまるっと信じてくれる人がたくさんいる。
親のことなんて特に、脚色してるつもりは一つもないけれど、そういう私のしんどい思いを吐き出して、それを疑わずに「そりゃ辛いはずだわ」って言ってくれる人がいるから、ほかのことでも無意識のうちに私は私を被害者に仕立て上げてきたのではないだろうか
加害者になるより被害者でいた方が、よっぽど楽だし、みんなが味方してくれるから。
いつもいつも、何が起きても私は被害者のつもりだったけど、それは私が都合よく私を被害者に変換してただけなのかもしれない。
いや、だいたいのことは本当に本当につらかったけど、ほぼ全ての事象は被害も加害も両極はらんでいるのに、私は被害にだけ着目してアピールしすぎていたのではないか。
無意識のうちに、被害者でいる居心地の良さに味をしめていたのかもしれない。
被害を誇張しすぎていたとまでは言わないが、何かしらの理由をこじつけて「私は悪くない」の城を高くしすぎてきたのではないか。
なんとなくは気がついていたけれど、被害者でだけいてはいけない。
もちろんもちろん、他人を傷つけろというわけではないけれど、自分が、人が、存在するだけで他者を傷つけてしまう可能性があることを認め、ときに加害者になるかもしれないという覚悟を持たなければいけないのではないだろうか。
そうして自分の、生命の、両極性を自覚しながら、ときに傷つき、悩み、結論なんて出ない中で、なんとか生きなければいけないのではないだろうか。
これはアンチナタリズムの話にも通じる(たぶん)。
幸いなことに私には私の話を信じてくれる人がそこそこいるので、そういうみんなの信頼をなくさないように、きちんと自分の言動に責任を持てるように、嘘をついて逃げ回らなくていいように、困ったことを起こしてしまっても正直に謝れるように、強くならなくてはいけない。
ただそこまでの道のりが険しすぎてつらい、亀になりたい