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他者様感謝デー


 突然、なんの脈絡もなく、人に何かをしたくなることがある。それはなにか些細なものを奢る行為であったり、身の入った助言であったり、誕生日のお祝いだったりする。その衝動は、ある日突然訪れる。
 他者様感謝デーなんて言うのはちょっとふざけすぎかもしれないが、この他者に何かしらをしたいという衝動は本当にいきなりやってくる。そしてある程度、1~2日ほどは持続する。そして跡形もなく消え去る。不定期開催のソシャゲイベントのようなものだ。

 以前のnoteでも書かせてもらったが、僕は誕生日祝いをあまり「相互に行うイベント」として捉えていない。その時々の自分にとって重要な人物であれば前もって何かしらを用意したり企画したりの気が回ることはあるし、誕生日のタイミングでそうでなくても親密な期間が長いなどすれば単純な数値列として記憶に残っていた誰かしらの誕生日を祝おうと体が動くこともあるが、「この人に自分の誕生日を祝ってもらったからこの人の誕生日を祝おう」となることはあまりない。

 人になにか親切にしていただいたとしてもそうだ。「親切にしていただいた事によって好感度が上昇し、好感度によって恒常的に割くリソースの量が増加する」ということはありうるが、「していただいた分を返そう」とする習慣自体はほとんどない。人によっては僕に「恩を仇で返されている」と感じている人もいるだろう。未だに京都人の誕生日を覚えていないことは好例だ。本当に酷い話だと思うし、心底申し訳ないとは思っている。


 人生で初めて『他人と同じ家に住む』ことを始めた僕は、数年前からは信じられないほど足が重くなっている。これまでは孤独が基本で、他人と触れ合いたいのであれば自発的に外界とコミュニケーションを取る必要があった。だが今はもう常に他人がひとりいることが基本になってしまい、孤独ではなくなった。よって、外界とコミュニケーションを取るモチベーションは徐々に低減しつつある。
 月に数度はコンタクトを取らないとひとの友人を名乗れない気がしていた学生時代の気分が抜けず、だから今はもう友達が残っている気がほぼしない。「友達だと思いたいが向こうがそう思ってくれているとは到底思えない」相手に「あなたはわたしの友達ですか?」と確認するのも恐ろしい。

 だからこそ、今こそ僕はきちんと他者様感謝デーをやり遂げなければならない。僕の友達は、さすが僕みたいな個体を一度友人と見做せた器の大きさがあるだけのことはあり、だいたいは親切で、幾分のブランクがあっても友好的に接してくれている。忘れられないうちに、忘れられないでいてもらえたことに、きちんと感謝をしなければならない。

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