小説「カレザキユミ――八月二九日(月)」(左脚壊死太郎名義)
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鳥かと思ったら、ぐねぐねの足の残像だ――カレザキユミはまず耳から覚めて、そして目が覚める。
群青の足はカレザキユミの頭上でバサバサと力強く空を切っていた。その音は猛禽類の大きな体躯の鳥を想像させた。まだ夢うつつの鳥羽口にいたカレザキユミ、彼女は群青の足の翼の羽ばたくような音を聴き、陽の照りつけるサンサンという音を聴き、傍にいる女性のハ、ハ、という呼吸音まで聴くようだった。
ただそれは夢うつつの鳥羽口のこと。目を見開けば、カレザキユミはひょいとうつつの風景に飛んでくる。
んん、と目元を擦って目をしばたたく。視界は次第に明瞭になる。寝起きはいっつも世界が反転してるのはカレザキユミがうつぶせに寝る習慣がないせいだ。床に寝そべって、視線を上げると、傍にいるクジライハナのロングスカートから覗くくるぶしがある。
「えい」とクジライハナのくるぶしをカレザキユミの人差し指が突く。
「えっち」
「別にえっちなとこじゃない」
「そんなことないよ。足の果実って書くんだよ。くるぶし。果実って生殖に不可欠じゃん」
「それで糖蜜のように甘い」
「果糖」
「かじっていい?」
「だめ」
クジライハナを見上げる。彼女は日に照らされて、ジーンズを伸ばすようにはたいている。
「あ、詰まってる」
「うん、左足の方がさ」
「適当に洗濯機に入れるからそうなるのよ」
「イソくんのだよ」
「適当だな。生活能力の欠如」
「ユミは女子力の欠如。スカート危ういよ」
「おっと、失敬」
カレザキユミは申し訳なさなど欠片もないようにレーヨン生地のスカートの端をつまんで膝頭まで持ち上げる。それから身体を反転させてうつぶせる姿勢になり、両掌を床につきいかにも気怠いように身体を起こした。
「手伝う」
「今日の当番、わたしだから気にしなくていいのに」
「ううん。当番、私は昨日で終わっちゃったから」
二人の唇が噤まれるが、それも一瞬のこと。
外はいい天気。蝉も盛り時で、どこか遠くで少年たちの駆け回るような黄色い声が聴こえてくる。
「昨日はそうだったね。わたし起きたらもう綺麗に洗濯物は干されてて」
「うん、出かけてたからね」
「どこ行ってたの?」
「有楽町のテアトル劇場。〈試みる根無し草、コムプレックス連れ〉って劇場観に行ってたの」
「サブカル的タイトル」
「でも大きな劇場の芝居だったのよ。演出がゲリラ豪雨亜族さんで、主演が佐々木内臓助」
「え、ササキナイゾノスケ出たんだ」
「うん、やっぱりドラマでも舞台でも活躍してる役者はちょっと異様な感じ」
彼女たちは洗濯物をはたく。籠に放られた洗濯物はぜんぶぜんぶ水気を孕んで色彩濃く夏の熱気にその身を乾かしたいと願っていた。水浴を終えたどこかのだれかの絵画のような女たちが、その身を心地よさとともに乾かしたいと思うように。
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「もう後は手提げ一つで出られるのね?」
カレザキユミはこく、と頷いてアイスコーヒーをストローからたっぷり飲んだ。アイスコーヒーはガムシロップとコーヒーフレッシュを二つづつ入れて濁り切っている。
「悪いんだけど、少しの間、転がり込ませて」
「いや、あたしはいんだけどさ」
コモリノゾミの2DKの部屋には、もうすっかりカレザキユミの荷物は運びこまれている。カレザキユミは少しばかりの同居への感謝を込めて、コモリノゾミと演劇を観に来ている。今は開場を待つカフェでのひととき。猛暑を感じるのに充分な冷房の効き方。
そうだ、室内の冷たさが、外の暑さを理解させることだってある。
「いまどうしても新居を探してどうこうってする気分じゃないの。それに一人暮らしってしたことないから、そっちに忙殺されるわけには行かないし」
「いつが〆切なんだっけ?」
コモリノゾミは夏でもいつもホットレモネードを飲む。カレザキユミはそんな彼女がなんだか好きだ。正直で好きだ。
「来月二十日。異例なのよ。書評の賞って」
「ふーん」
コモリノゾミは文学や書評に関心はない。ただカレザキユミとは大学時代からの映画や演劇鑑賞の連れ合いで仲良くしている。
「原稿用紙二十枚だから、そう忙しい作業でもない、なんて言うからさ。信じらんないだよね、イソくんさ。キヨハラだって無関心だし。もう私とは関係ありません、みたいな」
同族だな、とカレザキユミは自戒する。
「寂しい?」
「んーん。もちろん、あの場所とか今までの時間には感謝するけど。でもコモちゃんに話した通り、もう次の環境も考えているわけだし」
「結構あるのね、トキワ荘みたいなのって」
「コモちゃん古いよー。まあ、東京って無駄な場所とか無駄なお金あるしね」
「何それー。ねえねえ、もう時間じゃない」
「そうね、そろそろ行こうか。その前にタバコ一本吸わせて」
「うん。あ、あたし、ちょっとトイレ」
コモリノゾミが席を立つ。コモちゃんにはお手洗い、って言って欲しいな、と毎回思う。
タバコを喫って思考を巡らせる時、カレザキユミは吸い込んだ煙が脳に染み込んでいく脳内イメージを沸かせる。するとタバコは一層深みを増す。そう思いこんできた。
そう思い込んできた、自分のしてきたことが正しかったと思い込んできて、これからも――。
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お、洗濯ご苦労さん。そういって、イソザキタイヨウは晴れがましい笑顔と独特のステップで共有のリビングに入ってきた。
「イソくん、どこ行ってたの? あれ、部屋いた?」
「いや、ずっと飲んでて飲んだくれて町を彷徨ってて迷ってて惑ってて」
「深夜から?」
「んー。ほら、ライブ終わりだったから共演者と一緒に飲み屋いて、いや途中で抜けて歩き続けてた」
「さすが歩きの達人」
「ギターの達人だといいな」
「またやってたの?」とカレザキユミは少しつっけんどんな言いようになって少し自分が嫌いな感じがした。
「おー、深夜車道行脚。もう深夜三時にもなって、誰もいないでさ、もう無敵状態インマイリアルだから。二車線のその白い境界線をギターを弾きながら歩くんだよね。んで歌うんだよ。酔いどれの即興歌。べばるにはつべこべつべこべにゅななんたぱとり、てな根源の陽気なリズムで」
危ないよ本当に、とクジライハナが眉を吊り下げて言った。カレザキユミはそれに曖昧な頷きをして、洗濯物で満たされたピンチハンガーを夏の外気に晒す。蝉がどこかで鳴いている。子供の黄色い鳴き声もまだやまない。
どうしてもう離れて碌々会わなくなるかも知れない人の心配なんてできるんだろう、とカレザキユミはクジライハナを横目に見遣る。
*
カレザキユミはカレザキユミを知ってて、カレザキユミを知らない。カレザキユミを探求する心もない。知らないことに安堵も不安も抱いているから、いまを維持することばかりにかまけている。と同時に環境の変化についてはまったく厭わない。
カレザキユミは自分が無感情な人間だとは思わない。それこそ書評で生活していきたいと思うからこそ、この共同生活をするメンバーにも多くの賞賛と叱咤の言葉が口につくことはままある。キヨハラカズヒコとは決定的に仲を違うといっても過言じゃない口論があって以降、ろくな会話もしない。でもそんな状況すらどうでもいいと思ってる。だって、共同生活をするのは、家賃の問題だし、そうやって関係を作っていくのも人生に大事だし、エシさんの紹介で入ったからってみんなと仲良くなる必要ないし……。
それら、すべて体のいい言い訳だってことはカレザキユミ本人が一番よく知っている。
本当のところ、どうでもいいのだ。関係など。本当にどうでもいい。イソザキタイヨウのことも、キヨハラカズヒコのことも、クジライハナのことも、サトウトシオのことも、スズキアルファのことも、出て行ったヒダリアシエシタロウのことも、一切合切どうでもよくて、カレザキユミはカレザキユミのことだけが頭にある。
この一種の心の底にある冷淡さ、曖昧模糊的個人主義、傍観者的立場は、再三語られる通りカレザキユミの本質である。だからこそ、カレザキユミの苦悩は見えづらいが激しい。
カレザキユミは神奈川県川崎市の古事寺町に産まれて、何不自由なくすくすく成長して、天光幼稚園年中・花組のお昼寝の時間にある体験をする。不意に起きだしたカレザキユミは、ヨシノ先生に連れられてトイレに行って、手をしっかり洗って、先生に連れられて花組の教室に戻る。カレザキユミはそこでたくさんの友だち・その園児たちがみんなみんな寝ていることに異様な恐怖を覚える。みんなが動かないこと、カーテンが閉められて静かで薄暗いこと、いろいろな理由はつけられるかも知れないけれど、そんな理由など必要ない。説明できないことに理由はない。
ただカレザキユミは恐怖し、大声で泣いてみんなを起こした。先生の柔らかな胸元をハナとナミダでいっぱいにして、みんなを不安にさせてつられ泣きをする子が出るほどに泣いた。
再三いう。理由はない。ただカレザキユミは泣いた。
それからもカレザキユミは別に変ることなくみんなと過ごす。でも彼女の本質は見えないところで変わっている。明るく振る舞い追いかけっこをしながら、心根ではこの子を捕まえてなんだというんだ、という諦観にも似た冷淡な目を持つ。
カレザキユミだけが知っているカレザキユミ。この言い難い、心底の無感情を埋めるために彼女は読書をし続けた。
彼女の読書はこの冷淡さを追いやるための一種の荒々しい我流な治療だ。外の世界で人と触れ合っているだけでは得難い感情に溢れた物語を読む。この冷淡な目を忘れるほど没頭する手段。もちろんそれが手段だけでなく本当に愛せる行為だからこそカレザキユミは物語を読む。
けれど、どれだけ読んでも冷淡な目は消えない。
人には感じ取れない、その無感情は書評には一つの武器になりえた。
好きな本がある。好きだとのめりこんで読む自分と、心底冷静な自分が一緒にいて、カレザキユミの書評は一定の落ち着いた文体で書かれる。
カレザキユミとキヨハラカズヒコの相容れないのはまさにこの点に尽きるのであって、キヨハラカズヒコの超論理SFという感情を排除した理由なきバッドエンドばかりの作風はカレザキユミの心底を逆撫でする。
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「ねえ、アルファちゃんからだよ」
クジライハナがスマホを眺めるので、イソザキタイヨウもスマホを出して見る。カレザキユミはクジライハナの肩口に身体を寄せて、何々と画面を覗き込む。
「花火? したいって」
「あ、こりゃソルトさんといるな。そんな臭いがする」
「シュガさん、仕事でしょ」
サトウトシオは男性陣にはソルトと呼ばれ、女性からはシュガーと呼ばれる。
「ソルトさん仕事中でも、心とラインで繋がってる臭いがプンプンする!」
「なによそれ」カレザキユミは笑い、二人に確認するように言う。
「まあ、二人いてもいいでしょ。えー、この辺で花火できるとこなんてあんのかな」
「あいつら、きっと花火で俺らを追い回す気だよ! きっとそうだ。この場所から蜘蛛の子を散らすみたいに!」
「メタファーだね」
「イソくん、うるさい」
*
結局、カレザキユミとクジライハナが先立ってスズキアルファと合流することになった。場所は町を流れる江知川の本流に突き当たる広場だという。
「私らご飯食べてなかったもんね。ランチして、折角だから町をうろついて飽きたらアルファちゃんと合流しよう。川の合流地点で」
「なんか食べたいものってある」
「って言っても駅前くらいしかないしね」
「アメリヤ入ろう」
「そうだね。あそこのチーズペンネ・ドリアが好き」
「私はボロネーゼの気分だな」
「イソくん間に合うのかな」
「足が限界だから、眠って体力回復していくなんてリビングで眠っちゃったもんね」
「あそこでついさっきまで私が寝てたのに」
「過去のカレザキさんと寝る、とかわけ分かんなかったね」
「あーゆーのあんま好きじゃないけどね」
*
カレザキユミとクジライハナは駅前の洋食屋アメリヤでチーズペンネ・ドリアとボロネーゼ、それと各々、冷製ミネストローネを頼んで食べる。
これがアメリヤでの最後の食事かもね、なんてクジライハナが言うから、そうだね、とカレザキユミは頷いて笑うけれど、どうでもいいという諦念は離れない。
*
アメリヤで食事すると言ってたから、もしやとカレザキユミが勘ぐった通り、二人で店外へ出るとスズキアルファが待っていた。
「どこにいたの?」
「元ジャスコ」
「現イオン」
「イオンの天下統一」
「一人で?」
「ううん、シュガと。シュガ、営業回りだから」
「回りついでにランチデートしてんの。楽しいことで」
カレザキユミはサトウトシオと寝た経験はないが、スズキアルファは明らかだし、クジライハナもそんな雰囲気を感じる。カレザキユミは自分の容姿について自信を持っているわけではないし、抱かれたい欲求もないし、とどのつまりどうでもいいと思っていた。
彼女たちはコンビニでジャスミン茶と炭酸水とミネラルウォーターを買って、歩き出した。時間はまだ、五時手前。
「時間を潰すには少し長いねえ」
「でもまあ悪くはない」
「うん、どっか別の花火スポットがあれば、そこでもいいし」
「何も決めてないのね」
「うん、花火やりたいね、って言ったら、シュガがやろうって。イオンのわくわくサイズの花火しこたま買ってくって下に降りてった」
「仕事いいのかしら」
「営業は成績さえ取ればなんでもいい。役者が台詞さえ回せれば何したっていいのと一緒だって」
「違うわ。シュガ、説教だな」
「書評?」
「人物評。辛口で」
「大辛スパイシーソース盛りで」
「だれか他に来るの?」
「イソくん」
「うん、家で一緒にいたからね」
「あと、シュガ」
「聞いた」
「キヨっちも来るって」
「あいつどこ行ってんの」
「あたしも知らない」
「私も」
「風俗かな」
「エロいからな、キヨくん」
「シャンプーの香りしたら、風俗だ」
「そうなの?」
「キヨが昔いってた」
「あ、くるぶしをサンダルでつっつくな」
「ここ、クジラちゃんのエロいとこだって」
「マジ。別れを目前に知った事実。えい」
「エシくんは?」
「一応ライン送ってるけどまだ未読」
彼女たちは暑さにやられないよう歩いた。住宅の林立といくつもの支流の小川が流れるここら一帯は道がぐねぐねして、サトウトシオ曰く営業車泣かせとのこと。
「そういえばユミちゃんはエシくんのどうだった」
「どうって。受賞作?」
「読ませてもらったの?」
「いや、もちろん見せてって言ったわよ。まあみんなと同じでね。でも見せてくれなかった」
「やっぱユミちゃんもそんな感じか」
「みんな読んでないよね。タイトルだけは分かるけど」
「七本脚の蜘蛛。受賞作のタイトルは出るもんね」
「まあ、準備してたんだろうけど、すっといなくなっちゃったしね」
「あれ、私はあまり好きな感じじゃなかったな。黙って行ったわけじゃないけど、有無を言わさず離れた感じで」
「でも誘ったのね」
「そりゃ、きっかけはエシくんだもん。花火で追っかけまわして追い出したみたいな形にして、こっちが優位に立つんだから」
「それがどう優位に立つのか分からないけど……ふふ」
「何々」
「イソくんが、シュガとアルファが僕らを追い出すメタファーだなんて言ってたけど」
「メタファーって言ったのはクジラちゃんじゃない」
「でもあれはメタファーだよ」
「ふーん、イソくん。そんなこと言ってたのか。よっし、ロケット花火で追い立てて月まで飛ばしてやろう」
「月でウサギとセッション」
彼女たちは歩いた。花火のできる場所を探して。スズキアルファも川の合流地点で本当に花火ができるか知らないから、みんな割と真剣に探しながら、暑さを忘れるために会話と続けて、歩行し続けた。駅前からドラッグストアを抜け、一本銀杏のある公園をつっきって、住宅を割拠する川沿いにソメイヨシノの木々の影に涼を求めながら、時折ふらりと住宅街に入っては、あてどもなく蛇行右折左折を繰り返して、上り坂や小路の階段を上がり、表札における家性について詩を読んだり、ポップソングを歌ったりした。
「……あ、キヨもこっち戻ってくるって」
「……結局、ユミってキヨくんとそりが合わないままだったわね」
「うん、キヨハラのってSFになろうとしてなれてないんだもん」
「確かに独特だしね」
「なぜか太陽とコーヒーが毎回象徴的に出てくるんだよね。何の伏線になるんでもないんだけど」
その理由のなさが嫌なんだとカレザキユミは心に呟く。
「ねえ、あそこに小さい公園ある」
「花火できるかも知れないね」
「行ってみようか」
*
そして彼女たちは結局のところ、川の合流地点に辿り着くがそこにも大仰しく花火・凧揚げ禁止の看板が立っていた。
「不思議だ。どうして、こんなに花火が禁止されていてあんなに花火が売れるんだろう」
「きっとできるところではできるの。当たり前だけど、そういう当たり前の場所に集まるのよ」
「お金みたいに」
「アイロニーはもういいよ。あー暑い」
「あーあ、ユミちゃん言っちゃったよ。暑いって。そりゃ暑いよ」
「取りあえずコンビニそう遠くないからドリンク補充しよう」
空はまだ明るいがもう一九時に近い。
「なんかめっちゃ歩いた」
「疲れたね」
「あ、クジラちゃん言っちゃったね」
コンビニでは、スズキアルファと連絡を取っていたキヨハラカズヒコが合流した。クジライハナが大きなキヨハラカズヒコの身体をしゃがませて髪の毛の匂いを嗅いだが汗臭いばかりだった。コンビニは冷気に満たされて、スポーツドリンクとアルコールが買われた。
「かんぱーい」
「キヨくんは疲れてないでしょ」
「いや、疲れてるっしょ」
「チャリで来てんのに?」
「気持ちいいことしてたのに?」
「は? いや俺バイトミーティングだよ」
「あ、なんだ」
「コンビニバイトミーティングSFもいいな、って思った」
「思いついたらすぐ書こうとするんだから」
「んだよ。いいだろ」
「まあまあ」
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たくさんの花火を乗せて営業帰りのサトウトシオももう合流するだろう。きっとイソザキタイヨウはギターを掻き鳴らしながら登場するなんて言いながら、笑いあっている。ヒダリアシエシタロウのラインは未読のままだという。
カレザキユミも笑って、タバコを喫る。
もう間もなく一つの身体から別れる自分たちをタバコの煙に満ちた脳内にイメージする。それから。
カレザキユミは未読の『七本脚の蜘蛛』について未来の書評をぽんと思いつく。いや、読書感想文だね、と自戒する。タイトルだけで想像された身勝手な読書感想文だと。
エシくんは失っている脚と、自分のペンネームをかけてるんだろうけど、私から言わせれば、その役目は私だよ。
感情を壊死してる私がそのタイトルにふさわしいよ。
カレザキユミは安堵と不安を抱えて、コモリノゾミの家に転がり込んで、書評原稿を投稿して、新しい文学サロンに転がり込む。その目途はもう立ってる。共同生活が終わるのをみんな複雑な思いで笑いながら哀しんでいる。
「ユミ、泣いてるの。どうしたのよ」
「キヨくん、セクハラった」
「なんでだよ。何も言ってないよ」
「ううん、違うよ」
(違う)とカレザキユミは心で呟く。
「柄じゃないんだけど、何だかもう来週は一緒じゃないのを思ったら、ふっとね」
(違うんだよ。泣いてるのは)
みんなが心配してくれる。クジライハナは一緒に泣いてくれる。
(私が哀しいのは、みんなと一緒に感動できないからだよ)
ギターの旋律が響きだして、カレザキユミはみんなと一緒に涙を拭って笑う。タバコとビールが苦い。
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