レポート・詩人たちの牢獄――シェイクスピア『ハムレット』・北村透谷「我牢獄」・吉増剛造「頭脳の塔」の場合
※ 大学3年生の時のレポート。
本稿では、シェイクスピアの『ハムレット』((一))と北村透谷の「我牢獄」((二))から伺える牢獄という閉塞感の捉え方を確認し、その結果を踏まえた上で、両者から影響を受けているであろう吉増剛造の詩「頭脳の塔」((三))における牢獄を論じていく。
『ハムレット』では主人公のハムレットが狂気を演じている中で、〈デンマークは牢獄だ〉と語る[第二幕 第二場:7]の場面がある。
ハムレット (中略)それがおなじ女神の手で、この牢獄に送り込まれるとは?
ギルデンスターン 牢獄?
ハムレット デンマークは牢獄だ。
ローゼンクランツ ということになれば、世界中が牢獄ということに。
ハムレット そう、途方もなく大きなやつだ。そのなかには、独房あり、地下牢あり、なかでもデンマークはいちばん悪質のほうだぞ。
ローゼンクランツ まさかそのようなことが。
ハムレット ふむ、それなら、二人にはそうではないということになる。もともと、良い悪いは当人の考えひとつ、どうにでもなるものさ。このハムレットには牢獄、ただそれだけの話だ。
この牢獄の観念に対して、ローゼンクランツはハムレットの大望を考えれば、デンマークは狭すぎるでしょう、とお膳たてをするが、ハムレットはそれを否定する。そして、この台詞のかけ合いの一つの区切りとしてハムレットは、乞食こそが本物の世の王侯貴族であって、現世の英雄たちは乞食の投ずる影にすぎない、と語る。ここは『新約聖書』の「マタイによる福音書」の五章三~十二節((四)※1)の影響があると思われる。
ハムレットの狂気を演ずる原因は、父の敵である叔父のクローディアスの罪を暴くことにある。父が亡霊として現われ、ハムレットに自分の死の真相が殺人であることを吐露する。父親の死と母親の計略的に尚早な再婚、その再婚者が叔父のクローディアスであること、そして、オフィーリアへの愛さえ捨てて狂気を演じなければならなかったハムレットの苦悩は計り知ることができない。ハムレットはクローディアスの罪を暴くことに集中することで、この苦悩から抜け出そうとしていたではないだろうか。それならば、『ハムレット』の舞台となるデンマークが主人公ハムレットにとって閉塞された牢獄であると考えられる。また、悲劇としてある『ハムレット』はハムレットが中心となるのは明らかだが、ここにはハムレットの向けられる目の閉塞感が存在していたのではないか、と考えられる。各演者と観客の多様な目が狂気を演じるハムレットを見ること、劇のそれ自体にハムレットの牢獄の世界は現われているのではないだろうか。
ハムレットのことを〈デンマルクの狂公子〉として書いている、透谷の「我牢獄」は〈もし我にいかなる罪あるかを問はゞ、我は答ふる事を得ざるなり、然れども我は牢獄の中にあり〉と冒頭に記している。獄中の者は自己の生涯を二分している(※2)が、宍道達氏はこの生涯の第一期を〈自由の世〉であり〈故郷〉と呼ばれるとして、現在に該当する第二期を〈牢囚の世〉であるとした。その上で、〈「故郷」に對して彼は激しい憧憬を燃え立たせた〉と示している。この牢獄は冒頭部分を読むことから分かるように本当の牢獄ではなく、透谷が書き記した幻想の牢獄であるけれど、これも言わばハムレットのいうところの〈良い悪いは当人の考えひとつ、どうにでもなるものさ。このハムレットには牢獄〉という捉え方の一つなのである。こういった閉塞の視点を持つ透谷を、藤村は青木という登場人物のモデルとして『春』において、〈「馬鹿! お前達は寄って集って俺を狂人(きちがい)にしようとしてる」〉((六))という台詞を吐かせた。
また、『春』に当時の透谷の心情を現しているであろう言葉が書かれている。
「死は近けり。わが生ける間の『明』よりも、今死する際の『薄闇』は我に取りて難有し。暗黒! 暗黒! わが行くところは関り知らず、死もまた眠の一種なるかも。眠ならば夢の一つも見ざる眠にてあれよ。おさらばなり、おさらばなり」
宍道氏はまた、浪漫理想主義者であった透谷だが、〈その半面に俗世界の名誉と功業に対しても激しい俗的野望を、その過去に持った人〉であって、その側面を持ってして、透谷は〈控縛された世界を「牢獄」と考へ、彼を責め苛み緊縛する権勢や栄達を獄吏と考〉えたのだろうと指摘している。人間の二面性を透谷は「故郷」と「牢獄」として言い表しているのだろう。
ハムレットはオフィーリアすらを捨てて狂人となったけれど、獄中の者は恋を捨てうることができなかった。
もし我が想中に立入りて我恋ふ人の姿を尋ぬれば、我は誤りたる報道を為すべきにより、言はぬ事なり、言はぬ事なり、雷音洞主が言へりし如く我は彼女の三百幾つと数ふる何の骨を愛づると云ふにあらず、何の皮を好しと云ふにあらず、おもしろしと云ふにあらず、楽しと云ふにあらず、我は白状す、我が彼女と相見し第一回の会合に於て、我霊魂は其半部を失ひて彼女の中に入り、彼女の霊魂の半部は断れて我中に入り、我は彼女の半部と我が半部とを有し、彼女も我が半部と彼女の半部とを有することゝなりしなり。然れども彼女は彼女の半部と我の半部とを以て、彼女の霊魂となすこと能はず、我も亦た我が半部と彼女の半部とを以て、我霊魂と為すこと能はず、この半裁したる二霊魂が合して一になるにあらざれば彼女も我も円成せる霊魂を有するとは言ひ難かるべし。然るに我はゆくりなくも何物かの手に捕はれて窄々たる囚牢の中にあり、もし彼女をして我と共にこの囚牢の中にあらしめば、この囚牢も囚牢にあらずなるべし、否な彼女とは言はず、前にも言へりし如く我が彼女を愛するは其骨にあらず、其皮にあらず、其魂にてあれば、我は其魂をこの囚牢のに得なむと欲ふのみ。
しかし、獄中の者が恋を捨てることができなかったのは、未練のためではないと考えてよいだろう。それは〈恋愛は人世の秘鑰なり〉と考えた透谷ならではの人生の牢獄から脱する唯一といっていい手段だったのかも知れない。引用の部分から読み取れるように、彼女と合い見えることによって、その男女の互いの霊魂は半部ごと入れ替わり、自分だけではない自分がいることにより、牢囚を牢囚と捉えることがなくなるという、この牢獄にいる孤独の恐怖や寂しさから脱却する方法こそ恋であったと透谷は考えていたのではないだろうか。
ハムレットはおのれの宿命の舞台となるデンマークを牢獄と捉えた。透谷は「我牢獄」にて、恋愛を唯一の牢獄からの脱却であったと捉えた。その考えを踏まえた上で、吉増の「頭脳の塔」を読んでいく。
〈朝霧たちこめ/狭霧たつ〉と始まる詩の語り手は地獄の扉へと向かうのだが、その際に独白のようにして語る詩行を引用したい。
自殺にははじまりがない、それは無限につづく余白にむかう! 致命的に破壊されたことを知っている者の極めて優美な歌に似ているのだ。自由だ! おそらく精神はこの言葉のもっとも至高の点からいまひとつの自由を攻略する堡塁だ! そう、いま純白の眼が世界を鉄格子と、太陽を巨大な金網とみるのに似ている。死は単純速度にほかならず、自殺は単純速度にほかならず、死は単純速度にほかならず……おお オフェリア!
〈世界を鉄格子〉として見る視点や〈余白〉や〈純白〉から連想されるオフェーリアのイメージは『ハムレット』を想起させる。
北川透氏は「頭脳の塔」を読めば読むほど、〈朝霧のなかを甦った透谷〉((七))の印象が強くなるという。また、「蓬莱曲」で語られる〈地獄の道〉のような〈幻の道〉が現われる。他にも、この詩的世界のうちに〈たとえば透谷は、北村透谷はなぜ樹間から血となって地獄へ入って行ったのか!〉という一文で現われる。これらのことから、吉増が「頭脳の塔」を詩作した際に、『ハムレット』や北村透谷の印象が色濃かったことが伺えるだろう。
では、吉増の牢獄とはどのようなものであったか。そのことを知るために、〈頭脳の塔〉がどのようなものであるか、ということに言及してきたい。
この詩篇の中核をなす頭脳の塔であるが、詳しく考えたいことは〈血しぶきあげて望遠撮影され〉ているということである。〈頭脳の塔〉を望遠撮影しているのは、誰であろうかと考えた時、それは語り手ではない。語り手はむしろ、その頭脳の塔が立ち、開かれるべき地獄の扉のある世界に入り込んでいる人格であるからだ。本稿では、望遠撮影している者は詩作する吉増自身なのではないだろうか、と考える。吉増は語り手を自身のメタ意識として捉えていて、そのメタ意識とある程度の距離をとるようにして、詩を書いていくのであろう。
そのように仮定することが可能ならば、あらためて吉増の牢獄の問題に立ち帰りたい。吉増には〈塔〉の他にも、『何処にもない木』の詩篇に見られるような〈木〉のイメージがある。それらの直立したもののイメージとメタ意識を照らし合わせて考えていると、メタ意識こそ〈望遠撮影され〉るべき〈頭脳の塔〉なのではないか、という思いが立ち上がってくる。直立する語り手自身が〈頭脳の塔〉としてあることになる。そして、その語り手自身をメタ意識として捉えて望遠撮影する吉増であるが、現実の問題として望遠撮影が吉増の脳内で行なわれるしか有り得ないということである。吉増が脳内で思考した言葉が口に出るか、手によって書かれるかしない限り詩が詩としてあることができないことに閉塞感を感じていると考えられはしまいか。詩は書かなければ、読まなければ詩ではない。これは自明の理としてある問題だが、吉増はその問題に立ち帰って詩作をした。その点から見れば、アイロニカルな詩として「頭脳の塔」は読めるだろう。
その点を踏まえて、吉増の牢獄とは自分自身の頭脳なのであろう。
以上、シェイクスピアと透谷と吉増の作品を取り上げて考察をしてきたが、三人の書き記した牢獄の共通点はハムレットのいうように〈良い悪いは当人の考えひとつ、どうにでもなるものさ。このハムレットには牢獄、ただそれだけの話だ〉というところである。
参考文献
(一)シェイクスピア/福田恒存訳『ハムレット』(新潮社、昭和六十三年)
(二)北村透谷「我牢獄」(『現代日本文學大系6 北村透谷・山路愛山集』筑摩書房、昭和四十四年)
(三)吉増剛造「頭脳の塔」(稲川方人編『吉増剛造詩集』角川春樹事務所、平成十一年)
(四)「マタイによる福音書」(『聖書』日本聖書協会、平成八年)
(五)宍道達「我牢獄」(『岩手大学学芸学部研究年報』岩手大学学芸学部学会、昭和二十九年)
(六)島崎藤村『春』(新潮社、平成十九年)
(七)北川透「幻の透谷・非人称の憑人――吉増剛造「頭脳の塔」について」(『現代詩手帖 Monthly November 1969』思潮社、昭和四十四年)
※1 ◆幸い
5:3 「心の貧しい人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
5:4 悲しむ人々は、幸いである、
その人たちは慰められる。
5:5 柔和な人々は、幸いである、
その人たちは地を受け継ぐ。
5:6 義に飢え渇く人々は、幸いである、
その人たちは満たされる。
5:7 憐れみ深い人々は、幸いである、
その人たちは憐れみを受ける。
5:8 心の清い人々は、幸いである、
その人たちは神を見る。
5:9 平和を実現する人々は、幸いである、
その人たちは神の子と呼ばれる。
5:10 義のために迫害される人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
5:11 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
5:12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。
※2 我は生れながらにして此獄室にありしにあらず。もしこの獄室を我生涯の第二期とするを得ば、我は慥かに其一期を持ちしなり。その第一期に於ては我も有りと有らゆる自由を有ち、行かんと欲するところに行き、住まらんと欲する所に住まりしなり。