散文「クリスチャンの証し」

 小さい頃から教会に通っている教会の仲間には、同じ感覚を持っている人もいるかも知れません。私はどうにも神さまやイエス・キリストという存在を空気のように日常にあるものと捉えすぎるために、その大切さを忘れていることがあります。

 私は毎日、聖書日課を基に一日一度聖書を読んでいますが、それは正直に告白すれば、最近やっと習慣化してきた新聞を読む行為と似たもので、半ば義務のような感じがあります。
 また、食事の前には祈りを捧げますが、やはり空腹にはなかなか勝てないもので、「食事を感謝します。アーメン」と祈ってすぐ食事を始めてしまう時がほとんどなのです。

 日曜日の朝が早いことに不満はありませんが、一日中、教会にいて、委員会や青年会の活動が入っているとうんざりすることもあります。
教会に来ることがつまらないのではありません。教会には友人も多くいますし、壮年の方と話す機会など教会にいなければ、そう多くあることもないでしょう。

 ただ、私は今回の証しの題目となっている「捧げる」ということを思った時に「私の粗末な捧げものが何とも多いこと」に嫌気がさす時があるのです。
 神さまやイエスさまの存在が日常的になりすぎているために、感謝の気持ちというのが薄らいでいるのか、なんだか自分は本当にクリスチャンなのだろうか、と思うのです。
「そうではない、君のやっている奉仕は素晴らしいことだ」と言ってくださる方もいらっしゃいます。
 ただ、それは外から見た問題であって、自分で自分のことを客観視した時に、どうしてもそのような心持ちにはなれないのです。

 おそらく、私が望んでいる敬虔なるクリスチャンに私はなることが出来ないでしょう。
 まず、そのクリスチャン像が明確になっておらず、私が考える敬虔なるクリスチャンというのは際限がないからです。

 私は現在、少ないながらも教会学校での奉仕をしています。
 比較的上手くいく奉仕も、まったく上手くいかずに厭になっている奉仕もあります。
 どの奉仕も「なにか粗末な感じ」は拭い切れていません。
 でも、それでも奉仕をしなければいけないのです。
 不格好でもいいから奉仕をする、という心持ちはあります。
 それは、高校時代に「教会に疑問を持っていても、奉仕をしてもいいのだ」ということに気がついたからであります。
 奉仕をしてもいいのだ、と気付かされたのは、祈祷会で証しをさせていただいた時でした。
 ですから、受ける奉仕は異なったとしても、来年度も何かしら教会学校での奉仕をすることになるでしょう。

 私の奉仕は粗末である、というのは私が常に抱いている正直な気持ちです。

 私はこの時に、神さまとイエスさまと夕礼拝に出席なさっているみなさんにこの証しを捧げます。
 今回、証しすることで、私の気持ちに何か変化が起きてくることを願いつつ、証しを終わりにしたいと思います、ありがとうございました。


初出
2009年10月25日 夕礼拝での証し。

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