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今日の日はさようなら。

娘を産んで早一年と9ヶ月になる。
子供を産まなければわからなかったであろう小さいけれど確かなことがたくさん起こる月日だった。
毎日のルーティンが変わったのもそのうちのひとつで、以前の私にとって朝の時間は、身支度をして朝食を食べて仕事に行くという大多数の人がやっているルーティンと変わらないものだった。
けれど娘を産んでから、一分一秒はとてつもなく尊く、秒分単位で刻まれる時間をどう使おうか、赤子が起きるまでにある程度身支度は終わらせたいと、必死な形相で身体を動かしている。
ここまではある程度以前の流れと同じで、自分の上を時間が滑っていく。
身支度を済ませて、ふと時計に目をやると7時45分。
そろそろあれが始まる時間。
「あれ」とは世の中の赤ちゃんや小さなお子さんを持つ親たちが頼りにして止まない番組「おかあさんといっしょ」。
ふにゃふにゃの赤ちゃんだった娘は、今はもう一端の幼児ならぬがっしりとした体格の、貫禄たっぷり身体中に蓄えた女子になっている。
鋭い眼光で見つめる先には高らかに歌い踊るお兄さんお姉さんたちがいる。
毎朝この時間になるとテレビのスイッチをつける。娘は布団から起き上がり泣き叫ぶことなく、陽気に手足を動かしながらリズム遊びをしだすのだ。
これにはとてもとても助かる。
朝ご飯に洗濯、時には夕飯の下準備など朝の細々した作業を、踊り狂うご機嫌な娘を遠目で確認しながらせっせと行う。
朝と夕方、必ず「おかあさんといっしょ」を見せる。
次第に私も歌が歌えるようになり、娘と一緒に手足を動かしている。
のんきでほほえましいお歌やガチャガチャしたノリのいい踊り、画面の中で繰り広げられる世界は、以前の私にとったらまったく関わり合いのない異世界。
朝の情報番組の代わりに、歌や体操のお兄さんとお姉さんが朝の顔ぶれの常連になった。
個人的に贔屓にしているお兄さんまでいる。
それは体操のお兄さん。
涼しげな目元につるつるお肌が今時の、清潔感溢れるかわいいお兄さん。少しだけ星野源に似てるのだ。
そのお兄さんが歌の最中、「恐竜がきたよー!ガォー!」と恐竜の真似をするのだけれど、ガォー!の瞬間、カメラがお兄さんをアップにするので、私はその瞬間を見逃すまいとテレビの前にスタンバイしている。
お兄さんのガォーはとても愛らしいから。
これは小さな「萌え」の芽が芽生えたってことなのかな。
兎に角、私は毎朝お兄さんのガォーを心待ちにするようになったのである。
星野源似の爽やかなそれは、私に安らぎをくれている。
そして最近気づいたのだ。
「おかあさんといっしょ」は、安らぎと同時にささやかな切なさもくれることに。
最後のお歌の場面、番組の閉めに歌われる「きんらきらぽん」。
歌のお兄さんお姉さんと体操のお兄さんお姉さんが一緒になって踊りながら歌を歌う。
きんらきらぽんを娘の隣で聞く夕暮れ時。
最後の下りで、「おーい、明日よ、待っててね。」のフレーズが流れてくると、胸が切なくなる。
何の疑いもなく明日がやって来ると確信したようなその歌詞に、私はどうしたっておセンチ全開になってしまう。
これは私が年を重ねてしまったからだろうか。
明日が来ることはどうしたって当たり前じゃないのかもしれないと、どこかで知ってしまったからだろうか。
小さな子供たちに向けた歌詞だから仕方がないのだけれど、この世界には確実なことなんてひとつもないのだ、きっと。
明るさと共にある闇を一緒に抱きしめていくことが生きていくことである、ということが、一定の季節を過ごしてきた大人には段々と理解できるようになっていく。
子供には、まだまだまだ陽気であっけらかんとした世界が必要だし、表ばかりをみていても構わないけれど、表には必ず裏があるということも同時に少しづつでいいから、いつのまにか深まる秋みたいなさりげなさで知っていってくれたらいいなぁと、ノリノリな娘をみていて思う。
陽気な娘はスーパーに行くと、必ずなかやまきんに君のパネルの前で立ち止まる。
目線の先には山積みにされた魚肉ソーセージが。きんに君もきっとで子供の世界の住人だ。隆々な筋肉で力こぶを作りながら、満面の笑みをたたえたその姿に、娘は愉しげな雰囲気を感じているのかな。じっと見つめて動かない。
父ちゃんがそんな娘をすかさず抱っこして、一緒にきんに君にご挨拶をする。
その光景は私を愉しくしてくれる。
今日の日はさようなら!だけど、また明日会えるかなという感じで、愉しさと共にある切なさも味わいながら、毎日をコツコツと噛み締めながら過ごしていきたいと思う。
そして私も世間の親御さんと同じで、既にもうお歌や体操のお兄さんお姉さんのいちファンになりつつある。とても平和な朝と夕方のルーティンを過ごしている。

















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