実力という運を掴む 日本の能力主義
個別指導塾のバイト教師
この春大学生になった私は、ある個別指導塾でバイトを始めた。集団塾にしか通ったことのない私は、個別指導塾とは生徒と教師が一対一、また長期間同じ生徒を担当する担任制のようなものがある場所だと思っていた。しかし実際は生徒と教師は一対二、担当する生徒は毎回変わった。
正直ラクなバイトだと思っていた。集団塾の教師のように毎週決まった時間に働く必要はない。自分の都合のよい時間帯にシフトを入れればいい。また毎回違った生徒を担当するから教師側が予習することはできない、逆に言えば予習して質の高い授業をすることは求められない。時給が集団塾や家庭教師のバイトに比べて多少低いことを差し引いても十分満足できる待遇だと思った。
一方、この塾に通って懸命に勉強する生徒たちを不憫に思った。この塾の教師はほとんどが私のような大学生だ。受験を経験しているとは言え、教える技術など高いはずもない。そのような質の低い教師陣に加えて、担任制ではないため生徒は苦手分野や理解が不十分な分野を教師に見つけてもらい、集中的に勉強することが難しい。そして何よりも問題なのは、生徒は「正しい勉強法」を教わることができないことだ。思うに、難関大学に合格する人は効率よく成績を上げる勉強法を知っており、それを実践してきた。私は中高一貫の私立の学校に通っていたが、教師は皆、各科目の効率の良い勉強法について何度も説明してくれていたし、それが実践できるような授業を展開してくれていた。そのため、私の友人の多くは難関大学に合格した。成績の上がらない人たちは勉強をどのように進めていけばいいかすらわかっていないと思う。ただ、勉強法は私の学校の教師たちがそうであったように「何度も」教え込む必要がある。新しい勉強法を実践するということは、習慣を変えるということだからだ。さらに生徒一人一人の生活に合わせて微調整も行う必要がある。
しかし、毎回教師が変わる私の勤める塾ではこのような「正しい勉強法」の指導は行えない。この塾に通い続けていてもおそらく難関高校、大学に合格することは難しいだろう。理由は何であれ、こんな塾に通っている生徒たちは本当に不幸だと思った。せめて自分の授業の質は上げようと、採用が決まった次の日、書店へ行き、基礎的な英文法をわかりやすく解説している本を手にとって向かったレジの前、平積みされている本に目が留まった。
『実力も運のうち 能力主義は正義か』
タイトルを見て直感した。「そうだ、学力は確かにその人の努力によって得られた部分もあるが、育った環境もその大きな要因になる」同時に、つまらない本だと思った。だが、そんな明白な結論のためにどうしてこんなに紙幅を割くことができるのか、自分の思考はあまりにも浅はかなのだろうかと考え始め、そのままレジへ抱えて行った。
サンデル氏の主張
想像はしていたが、難解な本だった。能力主義がいかにして始まり、現代まで続き、そして昨今の政治的分断を生み出しているかについて多角的に書かれていた。(もっとも、私は前半の歴史や宗教的な背景の部分は途中で理解を投げ出してしまっている。)サンデル氏の深奥な論議の中で私が何とか理解したのは「能力(学歴)という一見個人の努力次第でどうにでもなりそうなものを人の判断基準にする社会において、大学に進学した者は勝者と呼ばれ自らの成功を完全に自らの努力の結果だとおごり高ぶり、一方大学に進学しなかった者は敗者と呼ばれ勝者のエリートたちに蔑まれていると考える。そのため社会の中で分断が起きている」ということだった。
ここは日本だ
『実力も運のうち』を読み進めていく中で、258ページの何気ない文章に目が留まった。以下の文章は、アメリカでは親が子供を何とか難関大学に入学させようとして「過干渉な子育て(ヘリコプター・ペアレンティング)」を行い、子供たちの多くが精神的に深いダメージを負っているという内容に続くものである。
「親業への注力はこの数十年、多くの社会で激しさを増しているが、最も目立つのはアメリカや韓国など不平等の大きい社会で、不平等がさほど深刻ではないスウェーデンや日本ではあまり高じていない。」
サンデル氏はこの文章に何か特段の意味を込めたわけではないだろう。しかし、就寝前に『実力も運のうち』を流し読みしていた私がこの文章を見つけてから先を読み進めることはできなくなり、そのまま本を閉じて目をつむったが思考が止まらずなかなか眠りにつけなかった。私は、この本を買ったとき「この本を題材にしてnoteで日本の教育について書いてみよう」と思っていた。そのつもりで毎晩この本を、難解な内容、表現に頭を抱えながら牛の歩みで読み進めてきた。しかし私は、この本がアメリカの哲学者がアメリカという極端な能力主義社会について論じているものだということを完全に忘れてしまっていた。「そう、ここは日本なのだ。日本語で書かれた本であっても、この本が日本社会について述べているわけではないのだ。」このことに気づいてから『実力も運のうち』を読むと、日本では見られないアメリカの入試事情、大学事情が目に入りやすくなった。アメリカでは、大学の学位を持つ人は国民の1/3ほどだ。名門のハーバード大学やスタンフォード大学の合格倍率は20倍を超える。また、名門大学を志望する裕福な家庭では個人向け受験コンサルタントを雇い、学生は彼らの指導と助言の元でテスト対策の勉強のみならずスポーツや音楽の習い事やボランティアなどの課外活動を山のようにこなすそうだ。一方日本では、「大学全入時代」という言葉が表すようにえり好みをしなければ誰でも大学に入学することができると言われている。難関国公立大学の東大と京大の合格倍率は3~4倍、難関私立大学の早慶は2~11倍ほどと学部によってかなり差があるものの20倍を超えることはない。(しかも東大京大志望者は滑り止めとして早慶を受験するためハーバード大学やスタンフォード大学の合格倍率と単純に比較はできないかもしれない。)また、日本で難関大学受験といえば大手予備校に通うというのが一般的で、推薦入試でない限り勉強以外のことを受験のためにやる人は少ない。他にも、日本とアメリカの大学の違いは探せばいくらでも見つかるだろう。このように、日本社会はアメリカ社会ほど能力主義が問題となっている社会ではないようだ。ただこれはアメリカと比較した上での話であり、実際に日本は学歴偏重社会だと言われているし、難関大学に合格すれば大手企業に就職できる可能性も高まるだろう。
能力とは。学歴とは。
難関大学の卒業生は待遇のいい大手企業に就職できる可能性が高くなる。ではなぜ企業、ひいては日本の社会、は学歴、大学の名前でその人の価値を推し量ろうとするのだろうか。大学を出ている人の方が出ていない人より、偏差値の高い大学を出ている人の方が偏差値の低い大学をでている人より「賢い」からだろうか。
私は、難関大学に合格する人の学力は主に2つのパラメータで決まると考える。1つ目は「地頭の良さ」、2つ目は「勉強し続ける持久力」だ。1つ目の「地頭の良さ」これが高い人は授業を1回聞くだけですぐ内容を暗記できたり応用問題が解けたりする。大学入試において有利に働くことは言うまでもない。またこの「地頭の良さ」は先天的、もしくは幼少期の教育の賜物であって多くの高校生が大学受験を考え始めてから大きく伸ばせる能力ではないと思う。一方2つ目の「勉強し続ける持久力」これが高い人は大学入試で問われる膨大な量の知識をこつこつ地道に頭に入れていくことができる。大学入試の出題範囲はとてつもなく広いとはいえ、無限ではない。有限の中から大学の先生は学生をふるいわける問題を作る。ただ範囲が決まっているため、毎回難しい、目新しい問題を作ろうとしても過去の問題とどうしても被りがでてきてしまう。つまり受験生は過去の問題から難問の正解に必要な知識、解法、思考法を学ぶことで、初見の問題でも難なく正解できる「地頭の良さ」が高い人とも何とか対等に渡り合えるようになってくる。そしてこの「勉強し続ける持久力」は「地頭の良さ」ほどどうにもならないものではない。「勉強し続ける持久力」はいわば勉強の習慣である。朝起きて朝食までに数学を3題必ず解く、通学途中の電車で単語帳を10ページ必ずやる、部活から帰って夕食までにその日の授業ノートを必ず見る、のような自分ルールを作り実行し続ける。ある意味意志の強さともいえる。ただ、たとえ意志が弱く自分ルールを破ってスマホをいじってしまうような人であったとしても、休日はスマホを家においてカフェや図書館で勉強する、また家に帰ったら親の目につくところにスマホを置くようにするなど、無理やり環境を作ることで勉強の習慣を作ることが可能である。(このような環境に身を置くという最低限の意志の強さは必要ではあるが。)
では、なぜ企業は学歴でその人の採用不採用を決めるのか。上で述べたように、難関大学に合格する人には「地頭の良さ」「勉強し続ける持久力」の二つのパラメータの数値が高くなっている。「地頭の良さ」も「勉強し続ける持久力」も高い人間が有用なのは言うまでもないが、もし「地頭の良さ」が飛びぬけて高い人なら、「地頭の良さ」が平均的の人の思いつかないアイデアをひらめく可能性があり、企業をイノベーティブにする起爆剤になるかもしれない。また、もし「勉強し続ける持久力」が極端に高い人なら、何か壁にぶつかっても自ら問題点を見つけ出し、学び、そして壁を越えていく優秀なリーダーになり、企業は社会のどんな荒波をも越えていけるかもしれない。このように、難関大学に合格する学力を有する人を採用するということは企業が生き残るうえで非常に大切なのだと考えられる。(学力をたった二つのパラメータで計るというのは浅はかだという指摘はごもっともであるが、その点は持論を展開するため、ご容赦願いたい。)
日本社会は能力主義であり続けてほしい
サンデル氏の主張とは全く正反対の結論になってしまうが、日本社会は今のような学歴偏重社会であり続けてほしい。というのも、日本の学歴を計るパラメータのうち「勉強し続ける力」の方は、アメリカ難関大学受験生が学習コンサルタントを雇い習い事を大量にこなすことほど費用をかけず高めることができるからだ。もちろん、ただでこの力を高められる人は少ないかもしれないし、勉強の習慣があっても間違った効率の悪い勉強方法を続けていては成績は上がらない。また勉強し続ける力を身につけさせるために予備校や中高一貫校などが存在するのだ。日本の能力主義、学歴主義はアメリカに比べてましだというだけである。ただこれ以上アメリカの状況に近づいていくのは御免だ。
最近私は、新しいバイトを探し始め面白い求人を見つけた。オンライン家庭教師なのだが、週の途中で生徒から宿題の写真を送ってもらいその丸付けをしたり添削をしたりできる。生徒の勉強法や勉強習慣について少しでも助言ができればと思っていたのでこれはやりがいがありそうだ。このような教育サービスが広がればいいなと思う。
だが、今働いている個別(?)指導塾をやめるつもりはない。『実力も運のうち』を読んで、教師と生徒が一対大勢だとしても、毎回担当生徒が変わるとしても、そして生徒の「地頭の良さ」が一般レベルかそれ以下であるとしても、「勉強をし続ける力」を高め、勉強の習慣を身につけさせることができさえすれば、その生徒は日本という能力主義社会の中で成功できるかもしれないのだから。