
体験について考えて、最終的に神に感謝する話
この前、パリに行ってきた。そのことは前回のnoteに書いたのだけど、それから体験というものにについてよく考えるようになった。
そんな時に、推しコンテンツのひとつである、ゆる言語学ラジオでも体験の価値について語られていた。
体験にあまり価値を置いていないタイプのわたしとしては共感しつつ、さらに考えを深めるきっかけとなり、なんとなくこの辺で自分が体験というもの、特に旅行とか観光をどう捉えているのかをある程度まとめて吐き出してみたくなったので、適当に書いてみることにした。保険として最初に断っておくと、適当なので、多分MECEじゃないです。
情報ありきで体験がある
体験の価値がないとは思わない。道中とか空気感とか、体験でしか得られない価値もある。実際パリにも、「パリにいる俺卍」的な価値とか街の持つ力みたいなものがあった。
それはわかった上で、自分においては体験の意味が薄いと思っている。特に旅行。知識がない状態で行くとなおさらで、それこそわたしにはコスパが悪すぎると思う。
まず、自分が得たいのはどちらかというと情報、もっといえば意味であること。そして感受性豊かでもないので、知識がないと体験したところであんまり意味を付与できない。特に何も考えられないし、「綺麗だな」とか「作るの大変そう」以上、終わり。みたいになっちゃう。
だから行く前には絶対知識を入れておこうと思うし、逆に入れられていなかったり、言語の壁があって意味を十分に摂取できないと思ったりすると、モチベが下がりがちなのかなと思った。
というか、体験って答え合わせの場だと思っていて。そもそも答え合わせをできるだけのものがないと、なんかこれだけコストかけて行ってそれ?みたいな残念な気持ちになる傾向にある。楽しくないわけではないけど、もっとなんかあるだろみたいな。情報があってはじめて輝くものというイメージがある。先に情報なんですよね。
あと基本的に人間にしか興味がないので、人間が作っていないものへの興味は薄くなりがちだし、何をどう思えばいいかわからないので、体験の中でも特に自然系の観光には本当に向いていない気がする。ウユニ塩湖は無理して行かなくても動画でいいっていうのに共感するのもそういうことだと思う。行ける機会があるなら行くけど。
大抵の体験は予想を裏切らない
とか書いてきたけど、情報云々よりも大きいのが、感受性の問題ともつながる気がするけど、予想を裏切ってこないこと。
これは情報アクセスのハードルが下がりまくった現代ならではかもしれないんですけど、海外に行こうが予想と全然違うことってそうそう起きないんですよね。調べまくってたのもあると思うけど、フランスに来て1ヶ月半、小さな驚きはあっても、大きな解釈違いや予想外がひとつも起きていない。
多分観光も一緒で、ウユニ塩湖に行って想像より綺麗だったということはあっても、汚かったとかほぼ絶対にない。綺麗だろうなと思って行って、綺麗だなと思って帰ってくる。
もちろんその綺麗さが想像を超えてくるということはあると思うけど、ベクトルがズレることはきっとない。
想像通りの体験をして、想像通りの感想を持つなら、本でも読んで想像してなかった発見をした方が楽しいなあと思ってしまう。
想定を裏切られることが面白いと思うのはわりと全人類共通しているのではないかと思うけど、何を裏切りと定義し、どのように裏切られることを期待するかの違いがいろんな差異を生んでいる気がした。
そうやって考えてみると、自分が求めているものは新規性や奇抜性かもしれないなと。だから未知の体験はしてみたいけど、ウユニ塩湖みたいな観光地に行っても特に新規性も奇抜性もなく、面白くないと思ってしまう。だから行くモチベがうっっすい。(でも機会あれば誘ってください!!!一人じゃ絶対行かないからなおさら)
観光地に行って体験しているその時は楽しいけど、それと面白いは別で、もう一人のわたしであるわたしβ的にはその体験って全然面白くはないんですよね。わたしが他人だったら、一ミリも興味がない。ちなみに一応書いておくと、ここでいう面白いとは「funny」ではなく「interesting」的な面白さのことです。
この前の記事で書いた気がする、パリが綺麗だったとか、芸術に溢れていて文化資本の違いを感じたとか、誰でも言えるし行かなくても情報仕入れれば普通にわかるだろすぎてクソでしかない。何?このつまらない発見。
面白いよっていう人もいるかもしれないけど、他人が面白いと思うかとか、正直心の底からどうでもよくて、わたしなら別にパリにこの先行くとかならまだしも、そういうわけではないから他人のそんなnote読んでも楽しくないし、よほどのことがない限り面白くないので全然ダメ。つまらなさすぎて吐き気がする。
わたしの文章というか思考の凡庸さつまらなさはさておき、そんな感じで、どうせ行ったりやったりしても、面白いこと言えないだろ。そんな凡庸なことしか言えないなら、すでに太宰やツヴァイクが書いた素晴らしい文章を読んでそれについて発信したりとか、最新の研究とか読んで友達に話したりしてた方が楽しいし新規性あっていいじゃんと思うのが、体験へのモチベの低さの正体なのではないかという気がした。
書くべきものがなさすぎる
じゃあ新規性のある体験を書けるよう頑張ればいいのかもしれないけど、そもそもこれまで人類が生きてきた中で、書かれてない話って何があるんですかね?という話で。
しかしあらゆる影は、窮極において光の子であり、明るいものと暗いもの、戦争と平和、上昇と没落、その双方を経験した者だけが、ただそのような人間だけが、真に生きたと言えるのである。
ツヴァイクのこの作品は本当に人類の至宝だと思っているんですけど、こういうのを読むと、本当に「ろくに生きてないわたしが人間や世界に対して言うべきこと、言って面白いことは何もないんだろうなあ」と思う。
個別具体の話は書けるかもしれないけど、別にわたしは趣味としてそれを書きたくない。なぜならわたしが興味なくて面白くないから。
書いていて思ったけど、この法則とかにばっかり興味持つタイプって現代だと人生ほんとつまらなくないですか??絶対違うタイプの方が楽しいと思う。(とか言いつつそういう自分が嫌いではないところが人間の厄介なところなんですけど。人間やだなあ)
アメリカ開拓とか革命とかしてた時代ならまだいろんな不明点やカオスがあって楽しかったと思うけど、もう本当に言うべき真理がなさすぎる気がしちゃう。
すべてが何かの焼き直しなのではと思っちゃうレベルです。その焼き直しもろくにできないカスが言うことでもないけど。(真理としては焼き直しだろうとなんだろうと、読んでる時はそんなこと考えないし、面白い読み物がたくさんある世界にはとても感謝してます。)
そしてこういう人間が今この世界について追加すべき本質的な注釈ってあるのか、とかを考えていると、そもそも人間がやるべきことって何?という思索が始まり、最終的には、「ていうかどうせ100年も経てば死んで骨だし、子孫やいい社会を残しても人類もいつか死に絶えるし、地球も太陽系もそのうち滅亡する」みたいな身も蓋もないことを考えて、自分が面白いと思うこと以外のすべてのやる気をなくすまでがデフォルト。
そう思うと、死後に神の審判があって救われるかどうかが決まるっていうキリスト教の発明はすごいし、もはや人生に意味というか気力のような何かを付与するソリューションは神しかないなと思ったりします。あの世で神に救われるためにちゃんとしようという気持ちになれる。無の恐怖からも救ってくれるし、神はすごい。何の話してたのかわからなくなってきた。
とりあえずわたしはとにかく面白いものが書きたいけど、自分にとって自分が面白くないどころかつまんなすぎてしんどい!!このクソ凡庸なカスから抜け出すために100回くらいギロチンにかかるべきかも!!!ということがわかったので、面白くなるべく今日もいろんなことを考えて、勉強して、いい本を読んで修行しようと思います。
いいなと思ったら応援しよう!
