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ルドヴィカス・ストルネブリンク(Ludovicus Stornebrink, 1847-1917)
『Adresaro』Serio XXIV に No.8278として「L. Stonebrink」という名前がある。 8278 YOKOHAMA, Japanujo, 184 A, Yatozaka. - L. Stonebrink https://eo.wikisource.org/w…
ルドヴィカス・ストルネブリンク(Ludovicus Stornebrink, 1847-1917)
『Adresaro』Serio XXIV に No.8278として「L. Stonebrink」という名前がある。
8278 YOKOHAMA, Japanujo, 184 A, Yatozaka. - L. Stonebrink
https://eo.wikisource.org/wiki/Dosiero:LD10-060.JPG
日本居住者としては、7383の Alphonse Mistle
暘城生「エスペラント」『大阪朝日新聞』1906年4月24日
1906[明治39]年4月24日の『大阪朝日新聞』3面に、「一日一題」として「エスペラント」という記事が掲載された。暘城生の筆名で土屋元作が書いたものである。
同年5月に『読売新聞』に掲載された黒板勝美の談話とともに、日本においてエスペラントが盛り上がるきっかけともなった。
以下その全文。読みやすいよう、仮名遣い、難漢字、当て字などはあらため、適宜句読点等を補った。
この翌々26日の『大阪朝日
1906.12『The British Esperantist』Vol.2, no. 24 に載ってる日本のこと
p.134「CHRONICLE. Edinburgh」
JEAの機関紙『Japana Esperantisto』が海外にも送られていたことが分かる。
「エスペラントはヨーロッパのもの」という批判は当地でもあったとみえて、日本での普及は大きな意味があったのだろう。
p.138「Esperanto en Japanujo」
ガントレットの手紙。
・1905年9月15日から通信講座を始め、受講者6
ガントレットの寄稿記事『The Japan Chronicle』1905.11.23号, p.691「ESPERANTO」
『The Japan Chronicle』1905.7.20号(および『The Japan Weekly Mail』1905.7.29号)で告知した通信講座の報告と追加募集。
『The Japan Weekly Mail』1905.11.25号と同内容。
受講生は64人。香港から1人、ニュージーランドから1人、半分以上が日本人、とのこと。
ガントレットの寄稿記事『The Japan Chronicle』1905.7.27, p.98 「ESPERANTO」
神戸で発行されていた英字新聞『The Japan Chronicle』1905.7.20号に「AN INTERNATIONAL LANGUAGE」と題するエスペラント紹介記事が出たのを受けて、ガントレットが賛同の意と通信講座の告知を寄稿したもの。実名は出していないが、署名に「8413」と『Adresaro』の番号があり、ガントレットだとわかる。
ESPERANTO.
TO THE ED
ガントレットの寄稿記事『The Japan Weekly Mail』1904.12.17, p686 「ESPERANTO」
第1回世界大会の案内をもらったガントレットが、新聞にも載せてくれるよう依頼。字上符付きの活字が無かろうと、h式の代用表記に書き換えるという親切ぶり。署名には実名とともに、『Adresaro』Serio XXV/Peco 2の「No.10399」を使っている。ガントレットは、Serio XXIVの「No. 8413」を使って寄稿していることもあるが、使い分けていたのかはわからない。(そもそも二重登録
もっとみるガントレットの寄稿記事『The Japan Weekly Mail』1905.11.25, pp.584-585「ESPERANTO」
1905.7.29号で告知した通信講座の結果報告と、追加募集。
署名に「No.8413」とAdresaroの番号があるため、前回もガントレットによるものとわかる。
『The Japan Chronicle』1905.11.23号に寄稿したものと同内容。
記念すべき第1回通信講座は64人が受講。香港から1人、ニュージーランドから1人、半分以上が日本人、なので残りは日本在住の外国人ということだろう。
「言語の世界統一」『工業雑誌』 7巻(129号)1897年8月8日 (とそのソース)
1897(明治30)年8月8日発行の『工業雑誌』7巻129号(*1)にエスペラントに関連する記事を見つけたので紹介したい。(読みやすいよう、旧字、旧仮名遣い等はあらためた。)
これは、1897年にザメンホフが、国際語を一つに決めるための「Skriba Kongreso」(書面会議)を計画し、世界各国の新聞社や国際語団体宛にパンフレット(*2)を送ったことを言っており、まだエスペラントがほぼ知られ
ガントレットと英字新聞
日本のエスペラント運動に大いに貢献したエドワード・ガントレット(George Edward Luckman Gauntlett, 1868-1956)。通信講座を行なったことで知られているが、その告知を含め、エスペラントについてたびたび英字新聞に寄稿している。
見つかった限りでその一覧。(エスペラント以外についての寄稿は除く)本文未紹介のものは今後順次紹介していく予定。
『The Japan T
ガントレットの寄稿記事『The Japan Weekly Mail』1905.7.29, p117「ESPERANTO」
英字新聞『The Japan Chronicle』1905.7.20号に「AN INTERNATIONAL LANGUAGE」と題するエスペラント紹介記事が出たのを受けて、ガントレットが同紙1905.7.27号にエスペラント支持と通信講座の告知を寄稿。それに合わせて同時に『The Japan Weekly Mail』にも寄稿している。
ESPERANTO
(TO T
「世界語制定の運動」『言語学雑誌』1巻5号(1900.6)
『エスペラント便覧』(要文社, 1967)を見ていたら、「日本エスペラント運動年表」(p67-)の1900(明33)年に”「言語学雑誌」15号にエスペラント関係の記事がでる"とあった。日本のエスペラント運動において、1900年というのは注目すべき早い時期と思うが、この記事のことは聞いたことがない(他の運動史の本では触れられていないと思う)。ということで、さっそく探すことにしたが、『言語学雑誌』に「
もっとみるこの note「エスペラントは謎だらけ」について
日本エスペラント運動史、とくに黎明期(黒板勝美らによる日本エスペラント協会が設立された1906年前後)における謎を、できるだけ元の記事(著作権が切れていれば全文)とともに紹介します。
運動史関係の本では、"〇〇の書いた記事が△△新聞に掲載され・・・"といったかんじで、いつのなんというタイトルの記事かわからず、探すのが困難なことが多々あるため、そういったものの出典を明確にしたいという意図もあります。
『The Nagasaki Press』(1902.11.26)の記事を書いたのはミスレルではない
(一部、以前の記事と内容が重複します)
英字新聞『The Nagasaki Press』の1902年11月26日号にエスペラントの紹介記事が載る。
この記事を寄稿したのは海星学校の教師をしていたミスレル(Alphonse MISTLER, 1873-1953)とされているが、そうではない可能性が高い。
なぜならこの記事は、イギリスの評論雑誌『The Speaker』 (1902.8.30)pp.
1906年『大阪朝日新聞』にエスペラント紹介記事を書いた「暘城生」は「土屋元作」
1906年[明治39年]4月24日の『大阪朝日新聞』に「エスペラント」、続く26日に「再びエスペラントに就て」と題する記事が掲載される。運動史の本はどれもこの記事は土屋元作によるものとしているが、記事現物の署名は「暘城生」(26日は「暘城」)であり、松本茂雄「1906年大阪のエスペラント」(『エスペラントの世界』1985.5~8)では、”最終的には土屋の筆名に暘城がつけ加えられる可能性は充分考えら
もっとみる『Unua Libro』の英訳本『An Attempt towards an International Language』
『An Attempt towards an International Language, by Dr. Esperanto』は、ザメンホフによる最初のエスペラント学習書、通称『Unua Libro』の初期英訳本の一つ(*1)で、アメリカで最初のエスペランティストとされるHenry Phillips, Jr. (*2)が訳している。1889年出版、訳者前書きは1888年9月17日付。
内容はネッ
1903年の『The Japan Times』その③1903.10.1
9月27日の編集部による記事に対して、J. Van Doornに続き二人目の反論。
1903.10.1., p.6 「Esperanto」([i.e. ]は補記した)
署名の番号は8231(AdresaroによるとOtto Dietikerというフランスの人物)だがこれは誤植、内容からして8431(Serio XXVI/Peco 1)のガントレット(George Edward Luckman