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ファントム・ジョーの正体に心当たりがある(違う人です)

 「誰にでも誤解はあるし予想が外れることだってある」という物語に寄り添った考え方があり「また気まぐれで伏線みたいなもの無視したの面白くて仕方がない」というあくまで客目線としての接し方というものがあり、それは普通、肯定と否定にきっちり分けられるものなのだが、世の中にはそれをごった煮にして勝手なカオスを作り上げるという楽しみ方をされる作品もあります。馴れが必要ですがそういう楽しみ方もあります。
 あいつだと思ってたのに「誰?」って人だった。あんな思わせぶりなこと言っておいて、それ?
 天気予報の精度が上がったとは言え外れる時は外れます。

 それはそうと、また時間が空いたこともあり「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」をまたIMAXしか時間的に合わなかったこともあり、なんとなく映画の値段として納得いかないような金額で鑑賞した訳だが「ミュージカル仕立てということだし音響が充実しているということは良いことではないか」と自分を説得させて見て来たのである。シートが豪華だった。

 なんか色々と前作と比較されるのは仕方のない話なのだが、つらーっと流れてくる感想を見るに「前作の統一感に比べて散漫な印象を受ける」という否定もあれば「俺は大好きだね」という肯定がパラパラと混在し、まあ映画の感想なんて「人に拠る」で正解だと思うのでどっちがどうという訳ではないのだが、こんなことを言うと日和っているように思われるのかも知れないのだが、俺の中では否定と肯定が混在しており、ただ「前作と比べて統一感がない」という印象はなくて、きっちりあったと思う。
 「生きづらさを抱えた人間」という表現はどうもしっくり来ない気がしてここでははっきりと「精神にバグを抱えた人間」と書きたいと思っている。
 ちゃんと障害者認定手帳が貰える精神障害者である。

 精神障害などというと昨今は、言っている方も戸惑いがあるし中々「言っちゃいけない表現」という気がするが、障害者手帳という言葉があり存在がある以上はいいんでねえかな、と自分を納得させることにする。

 ジョーカーことアーサーさん。
 彼が精神障害者なのははっきりと明言されているし(なんかカード持ってたし)されてなくても物語上、あれがおかしくなくてなんなんだという話だし、そもそもジョーカーってそういうキャラじゃん、なのだが。
 その描写が「痛快」ではなく(大体、まんがや映画なんかに出て来るクレイジーキャラはなんか痛快さがあって人気が出たりする)「ちょっと待ってよ、それはその」という地味なリアリティで描かれたのはまあ、見た人なら同意してくれるかと思う。
 ADHDとかなんとかで、今でこそ精神疾患の一部、しかも極端なものではなく誰でも多かれ少なかれ有している脳のバグが、社会生活上ちょっと厳しくなるレベルになると「君は限界なので保護してあげます」という優しい制度がきちんとあり、そして常軌を逸して社会に迷惑や害悪を及ぼした場合、ちょっと厳しい施設に入ることとなる。
 誰だって根拠のない気持ちの乱れがしばらく続くことはあるだろう。
 鬱になったり躁になったりは仕方のないことではある。

 アーサーさんは逸脱している。そもそもジョーカーはそういうキャラなのだが、施設的なものに入るほどではないがギリのラインまでリーチしている人であり、ちょっと可哀想だし、誰にでもあるバグの部分が共感を呼び「待ってください、今、自分の中で獣が目覚めてしまいます」というブースト効果が反響を呼んだという気がする。

 模倣犯みたいなもの、自分はジョーカーだ、などと言いだしてコスプレしたり奇行に走ったり変なダンスを踊り始めたりするのは全然マシで(失笑される可能性が高いがその話は措く)まあ、やらかしたりすることもあったりするし、あった。その話も措く。
 バグが増幅してしまったか、かなり近しいレベルにある人間にとっては、映画でロマンチックとさえ言えるほど整えられたジョーカーことアーサーさんは、模倣したくなっても「そういう人」にとってはやむを得ないことかも分からない。
 アーサーさんは完全に社会という共同体に馴染めていないし、一例を挙げればなんで銃をそこに持って来た上に落としちゃうんだよ! というところで結構な数の人が「面白い」ではなく「ウッそこでそれ? でもそうなる、俺も似たようなことしたことある。運命の神は残酷。獣が目覚めてきた」という、自分の中に宿っているバグを突きつけられたような厳しさを抱いたことだろうし、前作のジョーカーはそういうことの連続で、共感を呼ぶに充分過ぎたと思われる。

 共同体に馴染めない、というのは「劣っている人だから」と思われがちだが、実際はその人の性格、それこそバグに起因することが多いのではないかと最近は考えている。
 例えば「いじめ」などだが、いじめられる人は運動が出来ないだとかツラがキモいだとかなんとか、そういうのは(断言するのもなんだが)要するに異分子で共同体からどうしても浮いてしまう存在であることから始まる。とここでは仮定する。

 最近こそ少なくなっただろうが、昔のいじめられっ子というのは暴力に晒されることが多かった。暴力、というか「喧嘩が強い」ということが共同体の中で上位に位置することの出来る条件として通じていたのであり、最強とか無敵とかまで行かなくても「俺はとにかく最弱ではない」と証明するためにも必ず勝てるという相手に暴力をふるい、少しでも共同体の中で地位を確保しようとしていた者も少なからずいたであろうと思われる。
 それは「勝てる」という優越感の気持ちよさも勿論あるだろうが、その中に混ざっている「劣等感を持ちたくない」という必死の逃避も含まれている。そのぐらい暴力というか喧嘩というか、とにかく力は文字通り強者の証しであったが、そんな価値観は戦中にでも持っておけという話であるしそもそも明確な犯罪だしで、時代が変わるにつれ少しずつ精神面を責める形になって来ていると思う。誰かよりも上、という形がなければ自分を維持できない、劣等感を持つのが恐ろしくて仕方がない、それもまた脳のバグであるが、共同体に入り込むための手段ではある。
 時代が変わってもその辺は変わらない。
 もうちょっと柔らかく、少しは正当化できる言い方に変えてみる。
 要するにプライドの問題だと思う。
 自分は秀でている、という自覚と自信が、他人と接するときに心が乱されずに済んでいるところがあり、何かしらのプライドというものがなければ自己否定の大波に襲われバグは膨らみ続け、遂には社会生活に支障を及ぼすということと成り果てる。
 よく「プライド高い」というのは否定的な意味合いで使われる。
 なんか小馬鹿にしているというか嘲っているというか。
 まあでも実際、人間って譲れないクソ高プライドの一つくらい持ってますよ。持ってないとやってられねえもん。

 余談だが、中学時代に人付き合いというものが本当に下手で、背も低く弱々しくパッとしないルックスのカズオくん(仮名)という同級生がいたのだが、当然、みんなはカズオくんより自分は上なのだというクソみたいな最低限のセーフティネットに裏打ちされたプライドを持ち心に余裕があったと思う。残念ながら振り返ってみると、俺もそんな風に思っていた。
 悪い連中の下~の方のやつによく小突かれていた。面白半分に。上の人はそもそも目に入れてなかった。そういう存在。
 そのぐらい、共同体に溶け込めない、端的に言って「友達ができない」というのは、幼いほどに残酷な現実だと思われる。
 そのカズオくんはなんか別のどっかの高校に進学したので俺は忘れていたのだが、ある時、街で偶然すれ違って驚愕した。
 精々160センチ台の身長だったカズオくんは、ジャック・ハンマーと同じ手術でも受けたのかと思うぐらい背丈が伸びており(180あったと思う)更には筋骨隆々と呼んで差し支えのない肉体を身に纏っていた。
 高々一年か二年でそこまで変化するのだから、成長期とは言え、カズオくんには恵まれた資質があったのだろう。暴力という物差しで共同体の上位に君臨出来るというなら、カズオくんはさぞかし上にいておかしくなかったのだが「アレ、何?」とさすがに気になって同じ高校にいた知り合いに話を訊いてみたのだが、当然、直接的なイジメなど受けてはいなかったが、相変わらず人付き合いが下手であった上に、今度は「怖いよあいつ」と恐れられて孤立するという如何ともしがたい有り様になっていたという。
 恵まれた身体的資質と、恐らくは努力で(あんな厚みのある体が自然に形成される筈がない)カズオくんは「喧嘩が強い」という共同体評価で賞賛されるかと思いきや、やはり脳のバグは肉体では克服できず、孤立したままなのであった。
 舐められるのと怖がられるのとでは後者の方がまだマシだと思うかも知れないが、多分だが本人はどこかで虚しかったと思う。ただ自分は努力してそこらの高校生など話にならない肉体を得たというプライドは持てたかもしれないが、それも他人と交わることがなければ単なる自己賛美であるからして厳しいものがある。
 想像でものを言ってカズオくんごめんという感じだ。
 ついでに中学の時、当時舐め腐っていてごめんとも思うが、仲良くしろと言われても接点がゼロなので如何ともしがたかったことは弁解しておく。

 カズオくんの話は、共同体に入り込めないということが、努力で埋められることかどうか、ということの例題としてなんか長めに書いてしまった。
 異分子は入り込めないと書いたが、賞賛される異分子もいる。
 やっと話が戻せるのだが「ジョーカー」という存在は常軌を逸することで共同体という価値観を破壊しうる存在となれて、そこにプライドという大切なものが発生する。
 アーサーさんは少しずつジョーカーという存在になっていく。
 ここら辺が解釈の話になるのだが、俺はそれが「変化」とは思えなくて、ましてや「成長」などという話でもなく「努力」など存在しない。
 有り体に言ってハッタリの虚構であり現実逃避としての「違う自分」であり、アーサーさんは薄々それを自覚していながら虚構に逃げ込んでジョーカーを演じ続ける。
 彼は演じるのは得意だろう。何を演じたら自分というみじめな、バグを抱えた精神障害者が「逃げ込める道」となり「プライド」に繋がるかを見いだし、そしてそれは加速していく。
 ウソを一回ついたら、それを信じられてしまったら、永遠にウソを塗り重ねなければならないとは有名な戒めかと思う。
 俺がアーサーさんがそういう自分に薄々気付いていると解釈するのは、前作のザッピングのような、ウソと現実、勘違いと真実の入り交じった構成からでそれは「さてどこまでウソかな?」という映画としての楽しみ方も生んでくれる(そこも評価が高い理由だと思う)し、そこには「その気持ち分かる」という物語に入り込んだ共感も生まれる。
 ジョーカーに感情移入するぐらいは程度の差こそあれ誰しも抱いても仕方ないしだからこそ映画は評価されたのだが、だからといってさもオシャレと見せつけんばかりに、何故か紫色のスーツを着て街中をほっつき歩いてキメキメ仕草で自撮りを上げたり動画を撮ったりパフォーマンスに利用したり「外見はヒースレジャー、中身はホアキンフェニックス」みたいないいとこどりのジョーカー気取りがまあまあいたりして、それはそれでこっちが恥ずかしくなったりする。まあ、ホアキン版というかアーサーさんのスーツはジョーカーだと伝わりにくいというのはあるんだと思うが。
 でもまあ、しかしまあである。
 そういうニセモンのパチモンの虚構を世の中に見せつけたがるというのは、アーサーさんの心理をトレースしているようでそれはそれでいい感じのフォロワーなのかもしれない。

 よくフォリ・ア・ドゥは「なんかジョーカーかっこいいと思われてるから否定しておかないとバカが増えるからあんなになった」と解釈されたりするのだが、それはそれで、まああると思うのだが、そういう意図的な、観客に向けての注意喚起というより、フォリ・ア・ドゥのアーサーさんはハッタリに逃げ込んでやりすぎてしまった人の末路としては、ああいう物語にならざるを得ないと思う。
 例えば、ジョーカーと言えば恋人というかなんかめっちゃ好き好き言ってくるハーレイ・クインだが、まあそういう名前では呼ばれない(呼ばれてたかもしれん。忘れた)「リーさん」という厄介な女が出て来るが、見た人なら分かると思うが、完全にアーサーさんの虚構、ハッタリを見抜いた上でファンとなり近づいてきて優しくする。なんならセックスもさせる。好き好き言ってくる。全部甘やかし。
 これが如何に残酷な趣味かお分かりいただけるだろうか。
 彼女は「ウソついてハッタリかましてギッチギチの精神状態を何とか緩和しながらも実は緩和できてなくて違う緊張感でギッチギチになっている人」を、オモシロ半分に甘やかし、煽り、追い詰めて、そうすることで自分の求めて期待している存在を補強し、しかもその虚構を他人に委託して自分がストレスを抱えることを回避している。
 これはリーさんに限ったことではなくて、世界中にポッコポコ溢れて困っちゃったなというジョーカーコスプレ軍団も同じで、世界中の人間が自分の逃避先をアーサーさんに委託して、祭り上げる。アーサーさんがジョーカーを名乗ってなんか色々やって抱えてしまったストレス、加速する脳のバグ、そういうものを全員が回避してアーサーさんに押しつけている。世界規模のイジメみたいなものだ。
 彼らはジョーカーと名乗る虚構を甘やかし煽り立てる。
 保護しようとする。
 何故ならそうすることで自分は救われない、社会からも弾かれる、精神障害者という括りに入れられてしまう自分より「下」の人間を確保出来るから。アーサーさんは勝手に、彼ら彼女らの精神的セーフティネットとしてガッチガチの期待をされる。
 看守が執拗に「なんかジョークとか言え」と責めるのはかなり直接的な嫌がらせでありイジメだが、世界中の「ジョーカーのフォロワー」もほぼ同じ事をしているし、ジョークを言えと命じているに等しい。
 だからアーサーさんは裁判の最中に開き直ってジョークとして「ジョーカー」を演じる。トランプのジョーカーでもなければ「道化」の英訳でもない。「ジョークを言う人」という役割でありそういう意味であり、アーサーさんはジョーカーとなる以上、なんか自分でもつまらんと思っている一発ギャグを何度も言わされるハメになる。
 なんとなく飲み会とかで奇抜なこと言ったらウケてしまい、そのときはウケたな~って成功体験として終わっていたのに、何度も何度も入れ替わり立ち替わり他人が「あのギャグもう一回やって」と言ってきたら端的に言って地獄である。
 飽きてんだよ俺は、あんなの勢いで言っただけだよ! と言いたくなるがみんなの期待というプレッシャーによって言い続けなければならない。
 一発ギャグを言い続ける限り「社会」「共同体」というものの中で地位を得られる。あんなに入り込めなかったのに、入り込める。ただもう飽きてるしそもそも俺が面白くないんだよ! となったのが今作フォリ・ア・ドゥのアーサーさんである。
 一度ウソをつき、それを信じて貰えたら、ずっとウソをつかなければならない。どんなに言いたくなくても今更引き返せない。何故なら、そのウソによって世の中に地位が造れたから。
 結局のところ、脳のバグを有する精神障害者であるが施設に入院するほどでもないアーサーさんは、うすうす気付いていた自分の欺瞞と虚構に耐えられなくなる。完全にアッチ側まで到達したなら、耐えられるというより、虚構の自分が虚構でなくなる。
 作中、何度も「アーサーさんは二重人格かどうか」が問われる。
 んなご大層なものではない。単なる現実逃避の拡大版で、そこに得られなかったものがたまたまあっただけで、どっちも同じアーサーさんであるし嘘を吐いているというならストーリーの話ではなくアーサーさん自身が作中でジョーカーという存在が自分であると、自分にウソぶっこいているというのが「物語の中」から評価するのが俺は妥当な気がする。
 外から見たら何が真実で何が虚構かの構造を楽しむのが妥当だけどね。

 一作目のジョーカーは一発ギャグがウケて自分でも「俺は面白いヤツ」と思っている、ウッキウキで調子ぶっこいているジョーカーで、フォリ・ア・ドゥのジョーカーはもう飽きてんのにまだ言えと強制されるジョーカーなので、もう作品自体、見ている観客自体もその感覚が伝播してしまって低評価に繋がるのかもしれない。
 実際、俺だってクレイジーキャラにはもっと面白いものを求めている。
 ただ続編として、一人の精神障害者、ギリ施設行きにはならず社会という共同体の中で磨り潰される自分を守るためにジョーカーというウソをついてしまった人間のストーリーとしては、これまた妥当な、こうなるよね、という納得のいくストーリーで、なんとも色んな感想が入り交じって分離することなくかといって完全に混ざることもなくまだら色の何か不気味なものになってしまっているという気はした。
 
 それはそうとリーさんである。
 あの女が残酷極まりないのは、ジョーカーの必死のハッタリを「夢」とか言い換えて「山を造る」だか「登る」だかちょっと忘れてしまったが(個人的にはどっちでも結果は同じなので別にいい)とか言いだすところで、夢なら将来かなうかも知れないし、山なら登れるかもしれないし造れるかもしれないという「未来」の話なのだが、アーサーさんの必死のハッタリは現在進行形で犯している自己嫌悪がバッキバキに発生している代物なのに、そんなことを言ってしまうところである。あの女、本当に最悪だな。
 サブタイトルの「フォリ・ア・ドゥ」でさえ嘘なのだ。以前、劇光仮面の話をした時に単語の意味については語ったのでもう一回書くのもなんなので簡単に書くと共犯関係みたいな意味だが、共犯みたいなツラして逮捕される可能性は全部アーサーさんに押しつけている。ある程度は付き合ってたけど、あの人、実家が太いしコネとかありそうだし誤魔化せる程度のことしかしてないし逮捕もされてない。
 それで、やっと現実に向き合ったアーサーさんに「病気が治ってきたお前は面白くない」みたいなこと言うんだから、なんなの、お前のためにやってたんじゃないんだけど、自分のためなんですけど、それが辛くなったからやめたんですけど! とアーサーさんの代わりに説教したくなる。
 さんざん甘やかしておいてそれですよ!
 ちなみにタイトル画像に使ったのは「爆麗音」という佐木飛朗斗先生原作・山田秋太郞先生作画の音楽まんがの主人公です。
 社会人の「イジメ」は大人だけに入り組んでいると思う。
 イジメなんかしちゃいけない子供じゃねえんだから、という概念はいいのだが、お荷物になっている相手にちゃんとそれを伝えずに甘やかし(そこに優越感と、自分以下が決定しているやつがいる安心感が発生している)影で悪口言って盛り上がるとか、聞こえないように言いなさいよ。
 気付いたとき、聞こえたときとかのダメージはいじめに匹敵する。
 陰口を聞こえるように言ったら命のやりとりしか残らんのだ。
 ちなみに爆麗音の主人公、歩夢は別に劣ってないどころか異常な才能がありすぎて逆に共同体に入れなかった存在です。
 過ぎたるは猶及ばざるが如し。
 必要なのは巨大な才能ではなく協調性なのであった。突出した才能は必ずしも周囲に受け入れられるとは限らない。高校生になって屈強な肉体を手に入れたカズオくん然りである。悲しい話ですね。
 
 なんかTwitterにもよくいるよね。
 狂人煽って面白がってるクセに狂人じゃなくなったら「良かったね」じゃなくて「おもろない奴になった」って言って去ってっちゃう人。
 あれがリーさんです。
 覚えておきましょう。

 さてラストシーンの詳細はあんま書きたくないのでボカすが、あれいいの? って感じだが、俺も「何してんの?」と見たときは思ったのだが、なんかあれでいいような気がしてきた。
 ひょっとしてなのだが、バットマンに出て来るジョーカーって、世界中に散らばったジョーカーフォロワーの一人で、嘘ジョーカーじゃなくてたまたま本物だったんじゃないの? と思ってきた。
 アーサーさんがなろうと思ってなりきれなかったジョーカー。
 マジの、素の状態で、アーサーさんの真似してみたらそのまんまだった人。なのでハーレイも好き好き言いますわ。だってホンモノ出て来ちゃったんだもん。ウソつきでハッタリ言い続ける根気もなかったアーサーさんのことなんか忘れちゃいますよ。やっぱり最悪だなあの女。

 なんかまた旬のものを書いてしまって反省している。
 ネタバレとかもしちゃうし、俺。
 ただなんとなーくぼんやりと頭の中をぐるぐると感想が回転してしまったので書きたくなってしまったのだ。勘弁してください、家族もいます。

 混ざりきってないスープはまあまあ美味しくないと思うのだが、味が混ざりきってない分、色んな味が楽しめるかもしれない。
 なんかそういう玉虫色の評価。
 ちなみにミュージカル仕立てというか「そういうシーン」があっただけで別にIMAXで見なくても良かったよ。アレはだってリーさんの煽りと悪意の象徴だからなんか腹立つよ。
 みなさんもやるなら夢を語りましょう。
 他人に煽られた夢じゃなくて、自分の中から出て来た夢じゃないとひどい目に遭うので重々気をつけていただきたい所存です。
 

 


 


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