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劇光仮面の所感vol.1:劇しい光とフォリ・ア・ドゥ

 まだ連載中のものの感想をまとめるのもどうかと思うのだが、まあ、今のところの所感を急に書きたくなったので書く。vol.1とは銘打っているがすぐに続きを書くわけでもなく長いから分けるというでもなく、まあ先々また書くかもねという余白を残してのタイトルであることにご留意いただきたい。

 フォリ・ア・ドゥというよくワカラン単語を知ったのは「第三世界の長井」(ながいけん著)という作品でなので他作品を引用するのも気が引けるがそれは置く。要するに一人の狂気が伝染して周囲の人間を巻き込んで、一般社会、もしくは当然の判断(腹が減ったら何か食べようとかそのていど)から逸脱してしまう現象のことである。
 集団ヒステリーではない。
 あくまで、精々、数人の話だ。
 集団ヒステリーという多数を巻き込んでしまったら、それは一般常識や世界観のありようすら変わってしまう。
 言うなれば「なんだあの変わった人たちは」という扱いで済まされてしまう状態とでも言えばいいのだろうか。
 実例は割と思い浮かばない。それもあくまで数人という範囲に収まる精神疾患だからだろう。浅間山荘に立て籠もった赤軍などは近いようでちょっと違うと思う。あれは世情、一般社会と連結して集団が合意した逸脱行為であるし、当時は肯定すらされていただろうからだ。
 オウム真理教なども違う。違うが、教祖の狂気が感染した結果、あれだけ大ごとになったと考えれば、最初の時点ではフォリ・ア・ドゥであったかも知れない。

 「乙女の祈り」という俺の好きな映画がある。少女二人が同性愛的な関係に「傍目には見える」とされ、今でこそそれは肯定されてしまうが当時の一般常識からしたら逸脱した関係と受けとめられるだろう。精神科医も作中でそう述べていた。どうでもいいことだが「レズビアン」も医師に言わせると「ホモセクシャル」らしい。その時初めて知った。字幕派なので、俺は。
 仮に同性愛として、それ自体がフォリ・ア・ドゥではない。
 二人は共謀して母親を惨殺してしまう。それが正しいと同意が出来、正当性を疑わない。
 そういう状態が複数に伝染、感染する状態を指すのだと思う。

 さて劇光仮面だが。
 「激しい光に包まれた」というキラーワードがある。どういう状態かはよくわからんのだが何となく想像はつくが、それを細かく考えさせないキラーワードで、山口貴由先生はその「何言ってんのか冷静に考えるとワカランけどとにかくバキンと響く」表現を書かせたら天下一品であるので、特に考えずに普通に楽しんだらいいと思うが、何となくそこに引っかかった。

 実相寺二矢という主人公は、最初は「なんか熱心な特撮オタク」ぐらいの状態だったと思う。情熱の強すぎるオタクが特撮・ヒーローモノの深掘り解釈を繰り返し、自身のヒーロー願望を補強していくのは充分、異常だが、まあ許容できる部分だと俺は思う。

 だが実相寺は一線を超えてしまう。それは本人が望んだことではない筈だし(悪い奴を懲らしめようとしたら現在の法制度的に明らかにアウトである過剰行為)言ってみれば「事故」なのだが、その瞬間、その直前に実相寺は「劇しい光」に包まれてしまう。
 これは行為が終了したあとに包まれていたら、ただの「悪とみなしたものを加害するのは気持ちがいい」という狂気となるが、結果が出る前に何かの扉が開いてしまったのである。
 俺は「劇しい光に包まれた」というのは山口貴由先生の表現力、語彙、文才による粉飾であって、状況的には「完全に狂った」であり、その理由は自己陶酔と自己肯定が高ぶった末に辿り着いた狂気であり、一般的にイメージされる狂人とはちょっと違う。違うが、狂人である。
 それはその後の裁判で譲らず、結果、2000万という賠償金を課せられても平然としている部分でも伝わって来る。劇しい光に包まれていなかった状態での「事故」であったなら、もうちょっと平凡な対応をしていた可能性もあるが。何しろ実相寺には元からそういう素養があるのでなんとも言えないという所はある。

 ヒーロー物にリアリティを求めていくと、ヴィランになってしまう可能性は高い。一般人がどれだけ露骨な悪人であろうと私的に罰するのは法に触れる。何故なら、それは一方的な決め付けというリスクがあり、罪に対する妥当な罰かを司法ではなく個人の価値観で決定してしまうというのは、普通に考えておかしい。なので「リアルな社会」でヒーローという存在を描くのは難しいし、ましてやおかしな格好をしておかしな武装で相手を死に至らしめる可能性すら身に帯びているなど、普通に生活していても近寄りたくないしさっさと捕まるなりして「一般社会」に戻って来てほしいと、まあ、大多数は考えるのではなかろうか。だって怖いもん。近くにいてほしくない。

 「変身ヒーロー」という私的処刑人が存在するには、その存在が違法ではない世界から構築しなければならない。正体を知られてはいけない、あたりで現実とすり合わせるという手もあるが、無理がある。だって変装ぐらいならともかく変身したりとかそもそもおかしい。
 そこで「怪人」であるとか「怪獣」であるとか「よくワカランがとにかく悪い組織」というものが存在する世界を構築し、その中でヒーローを存分に活躍させ、何を躊躇うこともなく相手を処刑できる状態を造る。
 たまに躊躇うこともあるがそれはまた詳しくは省くが、相手を無碍に悪と決め付けるという世界観に対するカウンターもきちんと作中では描かれている。ただそれは劇中の煩悶を通して視聴者に「考える」ことを促す作劇であると思われる。

 これは完全に私論だが、洋画などでアメリカ軍が戦う相手は、結構前から宇宙人とかゾンビとかそんなんばっかりで「悪人」というのがほぼない、という傾向からも伺える気がする。
 殺していい相手、というものが一般的にアップデートされた上に近年は完全な悪の軍団というのは、今ちょっとそうなりかけている国もあるがそれでも無敵のアメリカ軍が蹂躙するのは後味が悪いし、あと普通に世界大戦の引き金にもなるし逆にリアリティがない。
 一昔も前はナチスで片付いていたのだが、当時のナチス幹部などが存命していない今となっては中々厳しく、バロディが関の山という感じも俺はしている。
 リアリティなどより先に、世界最強のアメリカ軍がド派手に何かを吹っ飛ばしているのは見たいが人間相手はなんか後味悪いよね、という時に宇宙人だとかゾンビだとかそういう存在はまことに都合がよろしい。
 斯様にヒーローというものを現代社会の一般常識内で許容する/されるというのはなんかめんどくさいが、そうなっている。
 
 ヒーローモノにそんなリアリティ必要か? という根本的な問いはあると思うが、これは劇光仮面の話であり、彼らは一般社会というリアリティの中で生きている、その彼らが「本物の」ヒーローとなりたいと思ってしまうのだから、現実とのすり合わせというものは考えなければならないのが、このまんがなのである。

 そして実相寺を皮切りに(ぼんやりとしたその概念を最初に提示したのは実相寺ではないが)仲間達はどんどん「劇しい光」に包まれていく。実相寺という、初手からおかしい人間に感化されていくがあくまで特美研の中での話で、人数的にも俺はその状態がフォリ・ア・ドゥという状態に相応しいと思う。

 「劇しい光に包まれた」というのが名言すぎて興奮してしまうから忘れがちだが、それは自己申告である。他人が、それを観測した訳ではない。実相寺からの感染だと思っていい。ちなみに最新五巻では一人、狂気から覚める。一度包まれたのならその光から脱却する現象も起きるはずだが、それがない。私はもう、その狂気、その興奮状態、そういったものについて行けないと「醒めて」しまう。

 フォリ・ア・ドゥのもたらす狂気の感染というものは、あくまで周囲の社会がそれを狂気だと認識するものでなければならない。
 全員が同じ価値観を持っていたら狂気としては扱われないからだ。
 この作品は戦中・戦後のエピソードが現在に受け継がれているのだが、それは本当に目の付け所に感服せざるを得ない。
 戦時中の狂気は当時ではそう思われていなかったわけで、それは「言わされているのではない」という一文からも読み取れる。戦後の混乱期で進駐軍が女性をレイプしまくっていたなども「仕方ない」と読み取れる表現をされているが今からしたら信じられないような蛮行でありどう考えても「悪」であり、その混乱期に現れた「劇光仮面」は世界観と調和した正義の味方、ヒーローという存在として成り立っている。
 実相寺は現在において、その世界観を肯定すらしている。そこはヒーローの居場所があった時代であり社会であったからだ。彼は特攻兵器ですら美しいと評する。完全に戦中の価値観だが、戦争の肯定ではなくヒーローというものが存在できていた「現実」に照らし合わせてそう言うのだ。
 だからこそ「君は本当に現代の若者なのか」とすら疑われる。
 現代の社会規範の中でそれは生まれないからだ。
 特攻兵器を美化するような物言いをした実相寺は「悲劇の話に何てことを言う」と殴り飛ばされるが、実相寺は「そこに肯定されるヒーローがいた」ということと、そのために造られたものを美しいと感じてしまう、まさに「現代の人間が持ち得ない」感覚を当たり前のように有している。
 
 冒頭で触れた「第三世界の長井」だが、フォリ・ア・ドゥという言葉で端的に作品の方向性を示している。不条理ギャグで脱臭はしているが、あの話は「この狂気をなるべく一般社会に及ぼさないように」とアプローチされている。
 この辺りに、方向性は違えども同じテーマを内包しているのだと俺は考えてしまう。実相寺が元からちょっとおかしいのでその辺もスッと入って来てしまうから「劇しい光に包まれ」というのがまるで成長や本物になったという感覚で読めてしまうが、明らかにあのシーンで彼は狂った。本来、現在社会の常識では許されないヒーローというものになってしまったと「あくまで自己の中で完結した状態で」そういう風に脳がチューニングされてしまった。そしてそれは間違いなく(異常な人間という意味での)「本物」が持つ精神状態であるから、特美研という中で次々と感染していく。

 世間でヒーローコスプレが流行っているという設定は、その辺りの異常性を薄めている。違和感を敢えて読者に抱かせないようにしている。劇しい光に包まれたというものを「覚醒した」「彼らは本物」という風に伝えて脱臭しているが、現実問題としてそんなことを本気で口にする人間は、何言ってんだお前おかしくなったのか? と扱われても仕方ないと思われる(ネットミームなどで言う分には何も問題ないと思うが)

 それだけでは一般社会の中でおかしくなっただけの話である。
 ここに最新刊では「人雷」という、怪物・怪人として相応しい相手が突如として現れるのだが、これも「第三世界の長井」で語られている、本来、内輪で処理出来ていたものが現実社会に影響を与え変容させてしまっているという危機感に通じるモノがある。
 とは言え人雷は積極的に人や社会に悪徳を持ったアプローチをする「怪人」ではない。そこに戦中・戦後という設定をまた絡めてくるわけで、この物語はやはり太平洋戦争というものを創作において非常に巧く採用し利用している。

 山口貴由先生は覚悟のススメなどで、戦時中の価値観を持っているとしか思えない(武士道もあるが戦中は武士道というものは巧く利用された)主人公を描いたが、あれはヒーローが存在するための舞台がきちんと整えられている。その後もそうだし、武士道を真っ正面から描いた「シグルイ」などは大変な高評価を得ているまんがだ。
 だが戦時中の価値観、武家社会の価値観は世界設定に適用されるスケールの大きな「狂気」であって当時は狂気ではない。
 そこでここにきて「現代」を舞台にしたという判断は満を持して挑んだのではないかとの印象を受ける。
 逆ならまあ、普通である。
 現代を舞台じゃ厳しいな、と思い、舞台を色々と変えてみる。それが普通の作劇だと思うが、言うまでもなく山口貴由先生は「普通」ではないし、劇光仮面という物語を、そのキャリアで培ってきた判断で投入してきたことは、やはり何かしらの強い意気込みを感じるが、まあ、そもそも、ひょっとしたら山口貴由先生が「劇しい光に包まれて」連載を開始したのかもしれないな、という印象は受ける。
 だからといって余りに入れ込んで読者がマジで感染したら酷いことになる。あれは現実社会をベースにしているがあくまでまんがであり、本当に「劇しい光に包まれた」と自覚し確信したら、病院にまず行った方がいいし医師にそう言ってみるのが正解と思われる。
 2000万の借金を抱え、幾ら暴虐の限りを尽くしているような悪人を見たとしても目玉を奪うようなはめになったというのに何か平然としている上に「劇しい光に包まれたので」と言われたのでは、俺は医師ではないが「治療が必要です」とコメントせざるを得ない。

 作中では「劇しい光に包まれた」という状態を特美研のみんなは羨ましいと思うし、自分も包まれてみたい、と言い始めるが、それは「本物になりたい」という、誰しもが思う動機であるが、幸い、実相寺のやらかしもあってそれなりのブレーキは用意されている。その理性が残っていたという描写も俺は好きで、感染しかかっている、という状態なら防護策が立てられるのである。完全に感染したとしても、実相寺の例があるだけに彼らは歯止めというものを考える余裕があった。
 敢えてヴィラン、というか怪人の着ぐるみの中でそれを体験してみたい、というのも「歯止め」にはなっている。二人は心許しあえる親友であるから、お互いを敵視するようなはめにはならない。
 死後にその着ぐるみを断ちきってほしい、というのも、実相寺の「劇しい光」がなんなのかを実体験として知っているからこそ「怪人をやっつける」というものを合法的に望み、友達への気遣いとして、その光を思うさま発揮させたかったとも受けとめられる。というか俺はそう受けとめた。

 このまんがはまだ途中であり、結末をどうするのかは見当も付かない。
 だから今、俺が考えている、感じている所感をこのように書いた。
 なんだか堅苦しい、斜め読みの感想に読めてしまったかもしれないが、山口貴由先生の節回しは狂気の人間をなんか面白いように伝えてしまう部分にあるので、それはそれで俺は「なんなんだよその文章と行為は」ととても面白く読んでいる。
 ただふっと、この作品の構造や意図を考えて見たくなったというそれだけの話であるから、全く見当違いの文章になっているかもしれないが、それは当然のリスクなので別に良い。もやもやしていたものを形にしてみただけの話である。

 実のところであるが、これは俺が参加している「純喫茶彼岸花」というべらべらと思いついた事をしゃべくる配信企画の、次のお題として候補にあげられているので、そこで言えばいいじゃん、となるだろうが、俺はどうも口に出して物を言うと茶化したりバカげたことを言ったりする癖があって、この辺を巧く伝えられるか自信がなかったので、これを書いた。
 彼岸花でやるかどうかは決定事項ではないのだが、他のメンツ三人の解釈や感想なども俺は聞きたいと思っているしみんなにも伝えてみたいと思う。ただこの辺は、多分俺は言わないよな、と思っただけだ。
 
 ともあれ、劇光仮面という物語の続きはとても期待している。
 まったく先が読めないからだ。
 そういうモノはわくわくする。そしてまたキラーワードを連発してほしい。コレどういうことだよ、と思っている理性を覆い隠すほどの直感としての面白み、それもなかなか「劇しい光に包まれて」そしてそれが感染しているのかもしれない。
 なぞとこんなところで終わりにする。
 総括するわけにもいかん。今のところ考えていることを書いてみただけだ。続きを書くかも分かっていない。
 まあ続きを書くようなことになったら、お暇なら目を通して頂ければ幸いかなと、そんな感じで終わりにする。
 ではまた、何かで。

 

 

 

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