風魔の小次郎は物語の速度が半端ないというお話
なんだコレ車田正美マガジンかなんかか? という感じになってしまっているのだが、男坂からリングにかけろ、そしてリングにかけろ2を読み、遂に風魔の小次郎に辿り着いてしまったので仕方ないとしよう。
前もって言っておけば、風魔の小次郎をかなり久しぶりに再読したのだが、凄まじいばかりの速度を有しているのに驚かされた。様子見、というターンはほぼないのではないだろうか。
リングにかけろがヒットした直後の作品である。
確かにその実績があるなら少しは肩の力も抜けるだろう。抜いてしまった結果ヘロヘロパンチになってしまって潰れるパターンも多いが(大体は何がヒットするのか分からんという迷走性が発生するからだと思うが)風魔の小次郎に関しては、それはない。むしろ脱力による鋭いリズミカルな動きが発生してしまっている。
「男坂」が当たらなかった理由は、車田先生が本宮ひろ志先生を好きな余り、持ち味を生かせなかったからだと思う。
車田先生の持ち味は「伝奇モノ」のセンスが光ることだ。
例えば「リングにかけろ」で言えばだが「影道(シャドウ)」の謎に拘った背景設定などからも、多分だが山田風太郎の感覚を継承しており、強いていえば本宮ひろ志先生と山田風太郎先生のハイブリッドという恐ろしい存在である。
更に車田先生の伝奇センスには「神話」という要素まである。
いかがわしいものではなく、単にキャラや小技に発揮されるだけのものだが、その一ひねりしただけの「神話」要素が華として鏤められ、大変良いものとなっている。
風魔の小次郎という作品は、現代(といっても1982年連載開始だが)を舞台に堂々と山風直系の忍者ものをやり、それにバンカラと学園モノを突っ込んだ上に神話要素までまぶした豪勢な代物である。
この企画が通らないはずがないというくらい豪勢だが、リングにかけろでヒットして、その次、ということにかける「またヒットさせるぞ!」という意気込みよりも「このタイミングなら俺の好きなことがやれる!」という私的な感情が優先していたと思う。
そうでなかったらあの「速度」が出せず「シームレスだった新展開への移行」はもっとバタバタしたものになっただろう。
力みすぎたパンチはテレフォンパンチとなる。相手に「打つぞ打つぞ」という意識が伝わってしまうと、躱されたりしてしまう。人間は何となくそういう反応をしてしまう。
風魔の小次郎に関して言えば、相手が何をされたのか分からないほど鋭く速いパンチを高速連打している。
例えばだが、ジャンプでスカッて打ち切りになったとして、「男坂」を例に挙げれば当時の車田先生といえども三巻であり未完である。それも結構、様子は見られていたと思う。十週打ち切りだけは回避している。
十週なら大体、二巻で終わる。
「敵対する学校(誠士館)にスポーツ選手を引き抜かれ、スポーツ名門校として落ちぶれていく白鳳学園」の助っ人として呼ばれる小次郎だが(その設定なんだよ、と思われるかもしれないが、当時(80年代)における学生スポーツというのは、一つの権力と巨大な富が絡む魔窟であり、なんなら政治家まで平然と絡んでいた事実がある。詳しくは江川卓のエピソードを描いた「実録たかされ」などを読むといいと思う)まともに学園モノみたいなノリだったのは最初の三話ぐらいだが、そこから先は学校になんか行かずに、誠士館の背後にいる「夜叉八将軍」との伝奇バトルへとするりと移行していく。
二巻というなら、既にもう白鳳学園も誠士館もどうでも良くなっている。風魔と夜叉の乱戦がかなり進んでしまっている。
これは飛鳥武蔵が小次郎の左足を「飛龍覇皇剣」という恐ろしい突き技でブチ抜き、いったん、傷の療養ということで離脱させたからというのが大きいと俺は思っている。
学園ものに縛られたまま、ぼちぼちスポーツやらラブコメの合間合間に、夜叉一族の刺客を撃退するなどをしないところが良い。これが仮にだが、読者の反応を見て方向性を決めているにせよ、判断力とそこから発生する速度が恐ろしい。
速い上に、車田先生は「これが描きたい」という気持ちが高まって反射神経までが異常に高まっており「なんか流れ変わったな、アンケートかな」などと思わせないくらい「最初からそうしようとしていました」というシームレス感が冴える。
昨今の作品が、ある程度馴らされた場所を走れるようにしている、というのは分かるし、それはそれで名作が生まれるのは間違いない。荒野を走らせて走り抜けろというのは本来、無駄なスパルタだ。
だが風魔の小次郎を描いていた時の車田先生は、明らかに岩道山道獣道を華麗に爆走し障害物をひらりひらりと避けながら速度を出し続けている。読者人気を気にしていなかったとまでは言わないが、これが才能だとでも言わんばかりにテンポ良く展開され、余剰な部分をそぎ落とし続けた結果、ストイックな鍛錬で仕上げられたアトリートの体のような作品になっている。
俺が思うに、短距離走の体である。
精々、200メートルくらいだろう。勿論、やるならもっと走るよくらいは考えていただろうが、結果として10巻で終わりだが、それが人気投票やらなんやらの「他人に生殺与奪の権を与えている」状況において「いや別にいつ終わりでも纏めるしそんなに長生きする気もない」という余裕が感じられる。何故なら、本当にやりたかったこと、かつ、車田先生の積み上げたものがおそらくは完全に融合しているからである。
むしろこの機会に詰め込めるだけ詰め込まなきゃという意思もあったかも知れないが、それにしては「展開が速すぎるよ」という息苦しさもドタバタ感もない。
前半と終盤は風魔一族を前面に出した忍者モノだが、中盤、最も尺を割かれるのは「聖剣戦争編」である。ここは忍者という概念から離れてしまう。終盤の風魔反乱編の短さで言えば、車田先生は「序盤・終盤」の連結で打ち切りに対する防備を整えていたかもしれない。
考えてもみて欲しい。
山風直系の忍者対決、しかも「撤退するもの」「追撃するもの」の争いで「どうやら追いつかれたな、ここは俺が食いとめる」だの「風魔の者とお見受けする」などで戦いが始まり、一対一の縛りはないなど、リングにかけろにおいて基本的に戦いはリングの上という限定空間で行われていたことよりもオープンフィールド的な展開で刺激がある。
ただボクシングの「1R三分」というルールの中で、車田先生は「見せ場は一回で良い」という技量を磨き上げており、それがまた、風魔の小次郎という戦闘シーンに多大な良さを与えている。
とにかくダラダラした戦いがない。
かなりあっさりと殺す。この「殺す」も、みんなが学生服を着ていて木刀を武器にしているから不良の喧嘩みたいに受け止められてしまい「えっ死ぬの?」という気持ちもあるが、別にそういうことではなく「衣装がガクランっぽい忍者」というだけである。
これもまた80年代の話になるが、改造学生服という文化があったのだが、改造された学生服、というかガクランと呼ばれるものは「学校の制服」というより「戦士の武装」である。
これもまた当時の時代背景もあると思う。
80年代というのは、学校教育の方針に、まだ色濃く「軍隊教育」の要素が残っており、教師は絶対的な権力の下、生徒をぶん殴ったり堂々たるセクハラしたりとやりたい放題な上に「上官には絶対服従」という軍隊教育然としたふんわりとした合意が形成され、それに対する反抗意識として「改造学生服」という文化が生まれ、それを着用するのは反逆者の証である。
故に戦う者の武装である。と思う。考えすぎているか?
ただそこまで考えなくても、ガクラン忍者ものというのはそれだけで絵ヅラが面白い。なので良い。
小次郎がケガで不在の間、他の風魔一族が集まってしまったため、飛鳥武蔵は夜叉姫(誠士館の最高権力者)の反対も押し切り、夜叉一族最強とされる夜叉八将軍を召喚する。
飛鳥武蔵的には精一杯の献策である。
風魔一族は滅びていたと解釈されていたため、それに対する準備も心構えもなく全体的に夜叉一族は突然出てきた風魔一族を舐めている。だが飛鳥武蔵としては、こいつらが一番強いのだから集めて総力戦を仕掛けるより他はない。
結果論だが、実は夜叉八将軍を揃えるより飛鳥武蔵が個別撃破した方が効率が良かった。
夜叉八将軍のていたらくは目に余るものがあり、あっという間に三人(三忍)にまで落ちる。飛鳥武蔵を含めても四忍である。その上、夜叉姫は何故か「呼び寄せたのにこのザマはなんですか」と飛鳥武蔵を咎める。
飛鳥武蔵は悪くない。夜叉八将軍が弱いだけだ。
実際、風魔を倒したのは飛鳥武蔵が二人であり(小次郎を離脱させたことを含めれば三人)、残りは紫炎が一人(相性が良かった)白虎が一人(不意打ち)で両者とも相打ちに近かったザマを見れば飛鳥武蔵の有能ぶりが分かろうというものだ。
挙げ句の果てに八将軍で一番図体も態度もデカい黒獅子などは「俺たちを全滅させて夜叉一族のヘッドになろうとしている」などと言い出す始末で、それは飛鳥武蔵がそう仕向けているならともかく、お前らが弱いだけではないかとしか思えない。
俺が思うに、夜叉八将軍はある程度、車田先生の中では「風魔の引き立て役」として最初から計算していたと思う。パタパタと八将軍が殺されていくのは「勿体なくないか」となるぐらいスピード重視で、もうツラのデザインも考えるのがめんどくさかったから黒塗りのままみたいにしていた(どうせすぐ死ぬんだよ、と思っているから考えるのが無駄)のかもしれない。
さすがに最後の三忍はツラが出るが、そこで三対三の一騎打ちでも始まるのかと思えば竜魔が一人倒した時点で小次郎が復帰、怪我をしたままの状態で夜叉二人をあっさりと倒す。
この速度感は、小次郎vs飛鳥武蔵戦に収束される。
誠士館と白鳳学園の揉め事を片付けるために呼ばれた小次郎と、その誠士館最強の飛鳥武蔵との対決は、物語当初の話から一切ブレていない。尚且つ、小次郎は途中、影三兄弟相手にグダったり柳生蘭子に吊されたりしているものの、それはあくまでコメディの要素であって、シリアスに言えば白鳳学園にやってきて最初に倒したネームドキャラは壬生攻介という「飛鳥武蔵と並ぶ存在」だったのだから、実力が伯仲しているということもちゃんと既に描かれている。
そして俺は壬生攻介の持っている「樹齢三千年の一位樫で造った木刀」という設定がめちゃくちゃ好き。ハッタリ力が高すぎ。
影三兄弟とかいうのが出てきたりするのは「圧倒的に格下相手」ならコメディタッチにも出来る、という判断だったかもしれない。実際、あそこ面白いし。そこからシリアス一辺倒になるので、風魔総帥の言っていた「小次郎はバカなので」のバカ要素も出ているが、あれでバカは打ち止めだったのは少し残念な気もする。
実力伯仲ならば、左足に怪我している分、小次郎が不利なのだが、ここで現れるのが「伝説の剛刀・風林火山」というめちゃくちゃ固いことが売りの木刀である。
これも実に巧くて、小次郎はパワープレイの戦い方をするので「木刀は固ければ固いほど良い」というところがある。だからめちゃくちゃ固いことが売りになっている風林火山は小次郎が持つべくして持ったような、すんなりと受け入れることが可能なギミックだ。
余談だが、小次郎のライバルだから武蔵、までは安易なネーミングかもしれないが「小次郎の方がパワープレイ」「武蔵の方が長刀を持っている」というヒネりも気持ちがいい。
分かっていてやっている、という余裕が感じられる。
風林火山の存在があるから、左足を怪我して弱体化している筈の小次郎が恐ろしい強さを発揮するのも飲み込める。そして飛鳥武蔵の逆転は「こっちの長木刀も黄金剣という『聖剣』であった」というところから始まる。
ここからが凄い。
まず黄金剣、という存在に唐突さがない。既に風林火山があるから似たようなのが出てきても「フェアな勝負になった」という感がある。これは風林火山で小次郎にブーストがかけられている状態で緊迫感を出すのに成功している。
その上、次の話の冒頭に「聖剣は十本ある」まで描いている。ここは本当に挿入の仕方が巧い。いったん、夜叉一族編が終わってから描いたのでは、あとから考えましたというテレフォンパンチになってしまう。読者はそういうのに敏感で意地悪だったりする。
ただ先の構想を開陳しただけ、というのでもない。演出としても際立っている。神懸かった速度と構成と言っていい。そもそも、いきなり風呂敷を広げ始めるという度胸が凄い。
そして次が聖剣戦争編となるのだが、先に十聖剣のことをきちんと描いているものだから、新展開への接続が非常にストレスのないものとなっている。ちょっと残念なのは柳生蘭子や北条姫子が出てこなくなってしまったぐらいだが、夜叉姫がお亡くなりになり白鳳学園の話は一区切りしてしまったので、その先の展開で排除したのは更に身軽になったという意味で仕方がない。とにかく速い。
ここで新たな敵「華悪崇」(カオス)というのが出てくるのだが、ここが「聖剣戦争編」であって「華悪崇編」ではないことにご留意いただきたい。イマイチ、名前と顔が覚えきれない華悪崇の面々だが、正直、ツラなどどうでも良い。
この話で描いているのは人間の方ではなく聖剣の方だ。
聖剣の設定に全振りしているので、名前も顔も端的に言ってどうでも良かったと思う。それでも秩序(コスモ)側はそれなりにキャラも重視されているのだが。どうでもいいけどカオスときたらロウだろ、とかではなくコスモってルビってるのが拘りを感じる。
俺は実はその辺、よく知らないのだが、聖闘士星矢はどこぞとのタイアップ企画だったらしい(未確認)。つまりある程度レールが整えられていて、その上を車田先生が疾走したという形であるとするならば、例えばアンドロメダ瞬のネビュラチェーンは項羽(小龍)の白羽陣を反映したものであろうしシャカの「いくかねポトリと」は妖水のワッパかも知れない。なんで妖水をシャカに反映させるんだよという気がするが。
それはともかく、コスモという言葉が気に入っているらしく、聖闘士星矢でキーワードとして多大な力を有したことは語るに及ばずという話だ。
ともあれ聖剣戦争編の「主役」は十聖剣の方であってキャラは割とどうでも良い。そのぐらい割り切っていると思う。それ以後の展開は「聖剣同士の争い」であって、それを持っているキャラは「所有者」に過ぎない。
ラスボスの華悪崇皇帝ですら、なんか「いつもの顔だな」という手癖で描いたような顔だ。唯一「怖い」と思った個性的な顔は邪火麗ぐらいだ。目が怖い。白目と黒目が反転しているだけで強キャラ感が出ている。あと絶対にこいつは怖いという説得力もある。
それぞれ五人ずつに分かれて一対一になるのもご都合主義感がなく、全員が金縛りになって一人ずつ「戦え」という感じで金縛りが解けていきながら、お互いに相打ちで消滅していく展開に繋げて演出に一役買っている。
だいたい、普通はキャラを大事にして実際は消滅していないのだが、聖剣戦争編では聖剣の設定を出し尽くした後で消滅し、聖剣だけがその場に残る。この「所有者が使い捨てられている」という虚しさもまた、良い。
相打ちだから二人とも消滅するのかな、と読者に思わせておいて、唯一の勝利者である飛鳥武蔵ですら何でか消滅したときの不合理さは恐怖すら感じる。この聖剣戦争というのはただの実力の比べ合いではないぞという緊迫感が走る。
華悪崇皇帝が小次郎との勝負の流れで、終始威圧的だったのに聖剣戦争の不条理な仕組みに気づき始め「ちょっと待て、これなんかおかしいぞ」となってから小次郎と話し合いをしたがっているのもちょっと面白い。
小次郎は構わずガンガンいくのだが、華悪崇皇帝は「ちょっと待ってほしい、お前、ちょっと待て。聖剣戦争って俺が思てたんとちゃう」みたいになっている。面白い。
余談だが、華悪崇皇帝は結構ずっと黒塗りシルエットの目だけ光っているタイプなのだが、明らかもう顔が見えないとおかしいだろって角度でも、見えない。なので目が光っている顔が黒いおかしな人みたいになっている。絵ヅラがちょっとというかかなり面白い。
ここが巧いところで「格下には格上の顔が見えない」というアクロバティックな演出に繋げている。勿体ぶってシルエットにしている訳ではない。なので小次郎の格が華悪崇皇帝に並ぶとちゃんと見えるようになっている。まあ、そんなに個性的な顔ではないが。
この話はキャラのツラなどどうでもいいのである。
聖剣同士の戦いなのである。
風林火山の逆転が「脱皮して真の姿になる」というのも、先だっての夜叉一族編で飛鳥武蔵の黄金剣がそうだったから「その手があったわ」と読者は思ってしまう。あれをご都合主義だと感じる人はいないだろう。
俺は鳳凰天舞がヒビ入ってきた時に「これも脱皮したらどうしよう」と思ったが、鳳凰天舞は別に皮被ってる必要はないので良い。んなこと言ったら他もそうだが、良いとする。バランスと見せ方の問題である。
主人公の木刀が特別扱いなのは当たり前だろう。
俺がちょっと残念だなと思うポイントの一つに、この「聖剣同士の戦い(聖剣の能力)に特化してキャラそのものの力はそんなに関係ない」があって、これはこれでいいのだが、そこは風魔の小次郎である。敢えてそこで忍者であったりサイキックソルジャーであったりの力を一枚上乗せして欲しかった。
竜魔は「風魔死鏡剣」という、相手を鏡に閉じ込めてたたき割るという、なんかすぐ破られそうな即死技を使うのだが、それも聖剣の力に上乗せするのではなく聖剣とは別で使って破られている。
風林火山による風魔烈風、黄金剣による覇皇剣、そういうものをちょっと見たかった気がする。だが聖剣戦争編は「神話」の域に突入しているので、そんな小技は必要なかったかもしれない。あくまで十聖剣という代物同士が打ち合う四千年にも及ぶ輪廻の話である。
小次郎は輪廻を叩き壊して四千年の戦いに終止符を打つ。
十聖剣はぼろぼろに崩れてみんななくなってしまう。
そこからの「風魔反乱」編である。
終章であるこの話は「蛇足」という評価もあるが、俺は好きだし、なくてはならないとも思う。
理由は、ここまでキャラを皆殺しにしてきた車田先生が、まだ風魔一族の霧風・小龍・劉鵬を殺していないので殺しにいかなくてはならないからだ。きっちりとみんな殺してこその風魔の小次郎である。基本的にこの作品は、車田先生のキャラに対する殺意が凄い。
白羽陣という美しい術は、それを使う項羽がいち早く殺されたことだけを思えば勿体ないのだが、弟の小龍がちゃんと使う。これもご都合主義やキャラ人気でのことではなく、ちゃんと項羽は息絶えるときに小龍の存在を読者に伝えている。
実際、小龍が殺された理由は「マインドコントロールされた竜魔に冷酷になりきれなかった」からであって、術そのものは破られていない。そしてそれはのちのち、ネビュラチェーンとなって顕現する。した。と思う。だって理屈がほぼ一緒だし。
霧風の「風魔霧幻陣」も濃霧を発生させて相手の目をくらまし、分身を行ったり身を潜めたりする術だが、それだけ聞くとなんとなくよくあるな、みたいになるが、風魔反乱編では他の連中と違って「多人数相手のマップ兵器」の側面が遺憾なく発揮され、一対一に特化した術ではないという描写が俺はかなり好きなのだ。
劉鵬はよく分からん。
怪力でデカいだけ。何か術が欲しい。グレートホーンみたいなのしか使わなかったと思うが。まあただ劉鵬というデカブツキャラが最終章まで生き残ったというのもなかなか、味がある。何回か「それは死んだだろ」という描写があるが、生きていた。
風魔の小次郎で頭から血を流して倒れたら、だいたい、死んでいる。
劉鵬はかなり粘った。結局デカブツキャラに相応しい死を遂げるのだが。
俺が「風魔反乱編」を蛇足だと思わない理由の一つに「小次郎と竜魔」の存在がある。華悪崇との戦いがあったのかなかったのか記憶が曖昧で、黄泉の国から戻ってきた気がする、という竜魔にそれが顕著だ。
風魔反乱編では、それまでバカの一つ覚えのように連発していた「風魔死鏡剣」を一切使わず「霊糸」という今まで使っていなかったサイキックを放ち始める。
これは俺は、輪廻を断ち切った小次郎による世界の改変だと思っている。
華悪崇皇帝も「そんなことをしたら(聖剣戦争に決着を着けたら)世界がどうなるか分からん」と喚いていたが、要するに輪廻を断ち切り違う時空になったのである。
違う時空に転生した小次郎と竜魔は、以前のそれとは違うのだ。
この考察の裏付けは別に何もないが、この考察によって「妹が死ななかった飛鳥武蔵」がどこかにいるのだと思って貰えれば皆さんも納得するかと思われる。
最終章だけに拾い方も抜群である。
一巻の表紙に描かれていた小次郎は「風魔」と描かれたハチマキを巻いているのだが、ここにきてそれをちゃんと巻く。これをキチンと物語をシメるのだという意気以外のなんだというのだ。
確かにちょっと急いだ感じはある。
マインドコントロールの天才、夢魔の上に更にマインドコントロール能力が強い死紋を据えるのはあまり良いことではない。飽きちゃうからね。だが霧風が死の間際に残したダイイングメッセージが「死紋」ではなく、なんやわからん忍び文字なのは初期の設定をちゃんと拾っていて俺の中では評価が高い。
最終章での若干の駆け足感は見逃すべきだと思う。
それよりこの作品をきちんと終わらせたことへの評価が高い。
この疾走感は尋常ではない。作品全編を通してこの作品はまさに風魔という概念そのものである。
その脚力は一日数千里を走り、その耳は三里先に落ちた針の音さえも聞きわけ、闇夜でも千メートル先の敵を見極める目を持ち、動けば電光石火とどまれば樹木のごとし、されど人知れず風のようにさすらい風のように生きてきた。
それが「風魔の小次郎」という作品の全てなのだ。
分かったか。分かったかと言っているんだ、おいっ。
という訳で、俺は久しぶりに風魔の小次郎を読んで、その作劇センスに感動した。めちゃくちゃな天才肌だ。これを週刊連載という枠でやれたということは感動という言い方では抑えきれない。
今でこそ、週刊連載といえどまんが家の人権や創作意欲は重視されているものの、当時のまんが家は今では想像も出来ないほど過酷な環境で生活しまんがを描いている。そんな中で「風魔の小次郎」という、作品としての纏まりを有した代物をリリースしてきたのだ。
これはリングにかけろとはまた別の評価軸を有している。
好きにやり、好きなように終わらせた。
それがいかに偉業なのかを、皆にも分かって貰いたい。
風魔の小次郎には特装版についた外伝と、別作者による外伝があるという。申し訳ないが、俺はそちらを確認出来ていない。なんらかの機会があれば、そちらもなんとか目を通したいと思う。
とにかく風魔の小次郎の凄さは「速度」である。
皆もこの疾走感を味わって欲しい。令和の時代においてもこの疾走感と巧みなストーリーテリングは評価されてしかるべきだと思う。
ところで夜叉八将軍の中で最強は誰だと思う?
俺は黒獅子だと思う。あいつシンプルだから。
八将軍じゃなければ言うまでもなく壬生攻介が最強なのは言うまでもない。私は別に夜叉一族最強というわけではないよ、とか嘘を吐くな、お前が最強に決まっているだろう。
9000文字以上書いてしまったのでこの辺で終わりとしたい。
まだまだ語りたいことはあるが、それより皆も風魔の小次郎を読んで欲しい。その速度に圧倒されるはずだ。車田先生は恐ろしいまんが家なのだ。
それが、車田正美だ!(完)
どうでもいいが風魔の小次郎の最終ページにはちゃんと「完」って書いてあるよ。未完って文字はないよ。